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前回のエントリーに拍手ありがとうございます~
今日は友達のところでリサイタルのプログラムを聴いてもらいに行きました。
友達というか先輩というか、そもそも一番最初に「演奏に戻るべきだ」と言ってくれた人で、大学のころから私の演奏を評価してくれた人で。
今回リサイタルをやるお知らせをだしてすぐ「本番前にプログラムを聴きたい」と申し出てくれたので、ありがたく弾かせてもらって来たわけです。
結果いい演奏になったか自分ではあんまり実感も手応えもなかったのですが褒められて、アドバイスもいただいて。
彼の家のピアノ(カワイのグランド)のキーがものすごく重たかったのに戸惑ったりなんだりもしたし、ちょろっと揺らいでずれそうなことになったり(でも自分でもちょっとびっくりする立ち直りの早さでした)、本番で実力がどれくらい発揮できるか、わからないんですが。
でも人前で弾いた、というのは大きいですし、あと大学でそうだったみたいに演奏を聴いてもらって、コメントしたりしゃべったりして、っていう大学時代の日常をちょろっと取り戻したような感覚にも何か自信を感じた、というかなんというか。
そしてどこに行っても「いいプログラムだ」と言われるのが嬉しい。(もちろんそれを最大限に引き出す演奏をせにゃならんのですが!)
今回のリサイタルのプログラムに関する雑感はこちらのエントリーで書いてるのですが、一つ一つの曲もあんまり巷で演奏を聴かないし、全体としてもちょっと変わった感じのプログラムで。
特に最近(例えばMelbourne Recital CentreでのAustralian Voicesシリーズなど)、コンサートやそのプログラムををデザイン・プロデュースする人を「Curator」と表記しているんですが(一般的には博物館の館長を指す言葉でもあります)、そのcurateする過程が好き、という話を今日していて。
彼が今プランニングしてるプログラムみたいに聴衆の事を考えてモーツァルトを入れたり、とかそういう配慮は基本的私はできなかったりします。だから一般の集客力はなかなか弱かったりするのですが・・・
今回のリサイタルはちょっと経緯が違うのですが、これからやりたいと思ってること(いっぱいあります)は大体こんなテーマでこんな曲を含めて・・・という風に形作って、全体の世界観をものすごく重視してて、だからこそなかなか融通がきかなくなる、きかせたくなくなるところがあるので。
Curatingではまだまだ色々やってみたい、実験したいことがたくさん。(それについては今回のが終わったらまた・・・)
あと自分が弾くレパートリーはなかなか他の人が弾かない、というのも大事にしています。
自分が好きなものをいつも弾いてるのですが、割とそこにはクラシックのうちのクラシックなレパートリーを守備範囲にする人も、がっつりな現代音楽を弾く人もカバーしてない曲がちらほらあったりで。
(だからがっつりな現代音楽にまだ手が回ってない、というのもあるんですが・・・)
これからレパートリーを広げていく方向(クラシック外も含めて?)もまた自分なりに考えていきたいのですが、それはまだこれから後の話かな。
今回のリサイタルは過去の「演奏者」としての自分をとりもどす側面が少なからずあるながらも、これからまた新しくピアニストとしての基盤をつくる演奏でもあり。
自分ができること、やりたいこと、そして自分だからできること、自分しかできないことを演奏でなんとかしていく第一歩でもあり。
大げさな話になってきましたがもうちょっと自分も自覚したほうがいいとおもうので(汗)
何にせよ(ちょっとびびっているながらも)楽しみです。先のことはとりあえず置いといて、とにかくここからなので。もっと演奏したい!と今まで以上に強く思えるようなリサイタルになるといいですね。
少なくとも聞きに来てくれた人にヴィラ=ロボスの第2楽章に出会って恋に落ちてもらえれば、メシアンの第5番の美しさを伝えられれば、そしてスクリャービンで燃え尽くせば、と思っています。
普段はあんまり聴かれない曲の魅力を自分が伝えること、そしてプログラム全体としての芸術を完成されることが一番のミッションです。
そのヴィラ=ロボスの第2楽章は明日の実地リハーサルでのフォーカスですね。あのピアノでどう音をバランスしていくか。
ということで明日はおそらくお知らせとちょろっとだけ更新になります。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」 第5曲「子に注ぐ子のまなざし」
Naxosでのマイケルの録音(時間限定試聴あり)
今回のリサイタルプログラムで一番美しい曲だと私が思う曲です。もちろん私の本番の演奏に大きく寄りますが。
子、というのはもちろん「神の子」を指す言葉。子に注ぐ子のまなざし、といっても幽体離脱じゃないですよ!
宗派だったりその他信仰の方向性によって神や三位一体、聖家族などのコンセプトにはいろいろ解釈がありますが、メシアンは音楽作品において「神の言葉」を神の子どもとして位置づけています。
旧約聖書の創世記の最初における「光あれ」の言葉から全てが作られた、ということから神が発する言葉は神の最初の子どもであり、神の意志を現実にする担い手でもあった、ということになり。
そんな先に生まれた「子」が人間として生まれた「子」に注ぐまなざしがこの曲。
神と子、子と子は一体であり、そして同時に別の性質をもった別の存在でもあり。
音楽は3つに分かれていて、下の部分は終始「神のテーマ」を弾いていて、上の二つの部分では「リズムカノン」という手法を使っています。
カノン=輪唱、というのは聴いたことがあると思いますが、ちょっと性質が違う音楽で。
なんというのかな、上の部分と真ん中の部分で奏でられてる音は違うのですが、真ん中の部分は上の部分の1.5倍長いリズムで書かれていて。時々上の部分と真ん中の部分が出会うようになっている、効果としてはサイクル的な感じになっています。(やっぱ説明下手だった)
メシアンがこの「リズムカノン」を使うときは時の流れみたいなものの表現が多いです。この曲のように遅く使って永遠の時のなかにsuspendされたような感覚を表現することが多いですが、速い用法もあります(トゥーランガリラの第7楽章とか)
そしてたまに上部分が途切れて始める鳥の声のセクション。この鳥の声は後の作品のように実際の鳥の歌を書き写したものではなく、あくまで理想的な、象徴的な鳥の歌だそうです。一応クロウタドリとか参考にしている鳥はあるそうですが。
なんというか、クラムのLux Aeternaみたいに不思議なneutralityを感じる、そして時の流れを感じる、独特の美しさと神聖さ(必ずしもキリスト教におけるそれを表すのではない)を持った曲です。
ちと拙いところはあるながらも自分の性質にもまた合ったところがあるので(だからこれからもどんどん弾いていきたいです)それが伝わる演奏にしたいですね。
今日は友達のところでリサイタルのプログラムを聴いてもらいに行きました。
友達というか先輩というか、そもそも一番最初に「演奏に戻るべきだ」と言ってくれた人で、大学のころから私の演奏を評価してくれた人で。
今回リサイタルをやるお知らせをだしてすぐ「本番前にプログラムを聴きたい」と申し出てくれたので、ありがたく弾かせてもらって来たわけです。
結果いい演奏になったか自分ではあんまり実感も手応えもなかったのですが褒められて、アドバイスもいただいて。
彼の家のピアノ(カワイのグランド)のキーがものすごく重たかったのに戸惑ったりなんだりもしたし、ちょろっと揺らいでずれそうなことになったり(でも自分でもちょっとびっくりする立ち直りの早さでした)、本番で実力がどれくらい発揮できるか、わからないんですが。
でも人前で弾いた、というのは大きいですし、あと大学でそうだったみたいに演奏を聴いてもらって、コメントしたりしゃべったりして、っていう大学時代の日常をちょろっと取り戻したような感覚にも何か自信を感じた、というかなんというか。
そしてどこに行っても「いいプログラムだ」と言われるのが嬉しい。(もちろんそれを最大限に引き出す演奏をせにゃならんのですが!)
今回のリサイタルのプログラムに関する雑感はこちらのエントリーで書いてるのですが、一つ一つの曲もあんまり巷で演奏を聴かないし、全体としてもちょっと変わった感じのプログラムで。
特に最近(例えばMelbourne Recital CentreでのAustralian Voicesシリーズなど)、コンサートやそのプログラムををデザイン・プロデュースする人を「Curator」と表記しているんですが(一般的には博物館の館長を指す言葉でもあります)、そのcurateする過程が好き、という話を今日していて。
彼が今プランニングしてるプログラムみたいに聴衆の事を考えてモーツァルトを入れたり、とかそういう配慮は基本的私はできなかったりします。だから一般の集客力はなかなか弱かったりするのですが・・・
今回のリサイタルはちょっと経緯が違うのですが、これからやりたいと思ってること(いっぱいあります)は大体こんなテーマでこんな曲を含めて・・・という風に形作って、全体の世界観をものすごく重視してて、だからこそなかなか融通がきかなくなる、きかせたくなくなるところがあるので。
Curatingではまだまだ色々やってみたい、実験したいことがたくさん。(それについては今回のが終わったらまた・・・)
あと自分が弾くレパートリーはなかなか他の人が弾かない、というのも大事にしています。
自分が好きなものをいつも弾いてるのですが、割とそこにはクラシックのうちのクラシックなレパートリーを守備範囲にする人も、がっつりな現代音楽を弾く人もカバーしてない曲がちらほらあったりで。
(だからがっつりな現代音楽にまだ手が回ってない、というのもあるんですが・・・)
これからレパートリーを広げていく方向(クラシック外も含めて?)もまた自分なりに考えていきたいのですが、それはまだこれから後の話かな。
今回のリサイタルは過去の「演奏者」としての自分をとりもどす側面が少なからずあるながらも、これからまた新しくピアニストとしての基盤をつくる演奏でもあり。
自分ができること、やりたいこと、そして自分だからできること、自分しかできないことを演奏でなんとかしていく第一歩でもあり。
大げさな話になってきましたがもうちょっと自分も自覚したほうがいいとおもうので(汗)
何にせよ(ちょっとびびっているながらも)楽しみです。先のことはとりあえず置いといて、とにかくここからなので。もっと演奏したい!と今まで以上に強く思えるようなリサイタルになるといいですね。
少なくとも聞きに来てくれた人にヴィラ=ロボスの第2楽章に出会って恋に落ちてもらえれば、メシアンの第5番の美しさを伝えられれば、そしてスクリャービンで燃え尽くせば、と思っています。
普段はあんまり聴かれない曲の魅力を自分が伝えること、そしてプログラム全体としての芸術を完成されることが一番のミッションです。
そのヴィラ=ロボスの第2楽章は明日の実地リハーサルでのフォーカスですね。あのピアノでどう音をバランスしていくか。
ということで明日はおそらくお知らせとちょろっとだけ更新になります。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」 第5曲「子に注ぐ子のまなざし」
Naxosでのマイケルの録音(時間限定試聴あり)
今回のリサイタルプログラムで一番美しい曲だと私が思う曲です。もちろん私の本番の演奏に大きく寄りますが。
子、というのはもちろん「神の子」を指す言葉。子に注ぐ子のまなざし、といっても幽体離脱じゃないですよ!
宗派だったりその他信仰の方向性によって神や三位一体、聖家族などのコンセプトにはいろいろ解釈がありますが、メシアンは音楽作品において「神の言葉」を神の子どもとして位置づけています。
旧約聖書の創世記の最初における「光あれ」の言葉から全てが作られた、ということから神が発する言葉は神の最初の子どもであり、神の意志を現実にする担い手でもあった、ということになり。
そんな先に生まれた「子」が人間として生まれた「子」に注ぐまなざしがこの曲。
神と子、子と子は一体であり、そして同時に別の性質をもった別の存在でもあり。
音楽は3つに分かれていて、下の部分は終始「神のテーマ」を弾いていて、上の二つの部分では「リズムカノン」という手法を使っています。
カノン=輪唱、というのは聴いたことがあると思いますが、ちょっと性質が違う音楽で。
なんというのかな、上の部分と真ん中の部分で奏でられてる音は違うのですが、真ん中の部分は上の部分の1.5倍長いリズムで書かれていて。時々上の部分と真ん中の部分が出会うようになっている、効果としてはサイクル的な感じになっています。(やっぱ説明下手だった)
メシアンがこの「リズムカノン」を使うときは時の流れみたいなものの表現が多いです。この曲のように遅く使って永遠の時のなかにsuspendされたような感覚を表現することが多いですが、速い用法もあります(トゥーランガリラの第7楽章とか)
そしてたまに上部分が途切れて始める鳥の声のセクション。この鳥の声は後の作品のように実際の鳥の歌を書き写したものではなく、あくまで理想的な、象徴的な鳥の歌だそうです。一応クロウタドリとか参考にしている鳥はあるそうですが。
なんというか、クラムのLux Aeternaみたいに不思議なneutralityを感じる、そして時の流れを感じる、独特の美しさと神聖さ(必ずしもキリスト教におけるそれを表すのではない)を持った曲です。
ちと拙いところはあるながらも自分の性質にもまた合ったところがあるので(だからこれからもどんどん弾いていきたいです)それが伝わる演奏にしたいですね。
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