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前回のエントリー、そしてビオラのエントリーに拍手ありがとうございます~
一昨日はこないだ届いたスコアを読みながらペルトのLamentateを通して聴きました。
そして昨日は夢でface to aceの「ヒグラシ」を編曲する夢を見ました(夢の中ではっきり、というかがんがん聞こえました)。
ということで今もまだこの2曲が頭と心の奥に濃く刻まれている状態なのですが、今回は全く別の曲について書きたいと思います。
今(練習時間短縮中ながら)練習しているプログラムってメシアンの鳥カタを除くとちょっと「じゃない芸人」的なところがあるような。
フォーレも前奏曲集は比較的地味で演奏頻度も低いようですし、ドビュッシーの「映像」も第2集は時間も短く色彩もちょっと地味だったり、ラフマニノフの練習曲集「音の絵」もop.39のセットは渋いですし。
ラフマニノフ、といえば若いときの作品、前奏曲嬰ハ短調(日本では「鐘」という愛称で知られていますね)やピアノ協奏曲第2番などが良く知られていますが、そういう映画音楽を思わせるようなロマンチックな曲ばっかり知られているのは日頃からちょっと勿体ないな、と思っていて。
そういうロマンチックな曲からはラフマニノフはチャイコフスキーのロシアの流れを継ぐ後期ロマン派の終わり近くの作曲家、みたいな印象を抱かれることが多いのですが、ちょっと外に出てみるとまた違った新鮮なスタイルの音楽があって、意外と新しい時代を彼なりに切り拓いているようなところもあったりするのです。
特にラフマニノフがアメリカに渡って演奏家としての活動を主とするようになる前あたり、後期の作品は本当に毛色が違って面白いです。
ピアノ音楽ひとつとっても前奏曲集(op.23, 32)と練習曲集「音の絵」(op.33, 39)を比べると色々違うところがあります。(さすがにスクリャービンみたいに「これ同一人物!?」というほどではないですが)
ラフマニノフを始めチャイコフスキーや後の時代のストラヴィンスキー、プロコフィエフなどもある程度そうですが、ロシアの音楽って三和音(ドミソ、とかレファラ、とか3つの音で出来る和音)をそのままの形で重ねて使う事が多くて、結果色彩としては原色使いみたいなことになるんですよね(お隣のフィンランドのシベリウスもそう)。反対にフランスとかは三和音に音を+αしてもっと微妙な色彩を作ることが多いです。
でもラフマニノフは練習曲集あたりからハーモニー、そして色彩のバラエティが広がってきて、「いつの間にこんな色使うようになったの!?」と驚くほどです。その傾向は特にop.39のセットで強くて、なんかちょっと別世界なんですよね。
それが結果ラフマニノフらしくないとも取れますし、地味になったとも取れますが(例えば絵画で原色使いから和風の色に変わったようなことなので、どう転んでも全体が地味な印象に映る)・・・
それから後期のラフマニノフの音楽って、元々彼の音楽を裏で支えてたメカニズムみたいなものが前に出てくる、というか。
ロマンチックな印象が先走っているけれど、とっても頭脳プレイというか機械部分までものすごく綿密に作ってあって、理論的に分析してもものすごく深い。
それが後期になってみるとその機械部分が表に出てきて、結果一見クールになったようにも思えるのですが、中身は同じラフマニノフ、ロシア音楽の独特な熱や厳しさや土臭さがちゃんと入ってて。
だから魂は有名どころの曲となんら変わりないのですが、それを表現する方法だったり手段だったりが年を重ねた結果がらっと変わって、それが面白いと思うんです。先ほど絵画にちょっと例えましたがそういう感じなんですよ。音楽って絵画よりも比べにくいのですが。
そしてそのスタイルだったり、新しい表現の方向性が同じ時代の他の作曲家と違って。過激な試みはしていないけれど独特で、確かに20世紀の表現。ラフマニノフの後期の音楽はちょっと不思議なポジションにあるんです。
さて、長くなってしまったのでここで一旦切ります。次回は後半としてラフマニノフの後期の作品の中でも今回書いた特徴というか魅力が強く見られる練習曲集「音の絵」のop.39のセットについて続けて書きたいと思っています。書きます。
今日の一曲は次回やりますー。
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