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前回のエントリーに拍手ありがとうございました~
(だいぶちらかったので次回は要改善ですね)
ちょっとここ数日精神が故障気味です。おそらく季節の変わり目。
しかし気分が沈むのに加えて情緒不安定というか易刺激性・軽躁の傾向・不安などがやってくるのが厄介。今を乗り切るのもそうですがこれからの季節をなんとかsurviveしなきゃいけないので、なかなか今の不調は悩みどころ。
そんな中ピアノのレッスンに行ってきました。
およそ半年ぶり、今やってるプログラムを初めて先生に聞かせるレッスンでした。
今日はドビュッシーとフォーレをちょこちょこっと弾いたのですが(まあそこそこに弾けました。そして色々アドバイスをいただきました)、メシアンの話もしました。
先生がメシアンを弾いたのを聴いたことはないのですが、「20のまなざし」からはいくつか弾いているらしいんですよね。
そして先生はメシアンに会ってる(少なくとも直接みている)とのことで。
そのことは前からちょこちょこ聞いていたのですが今日は改めてまとめてみたいと思います。
メシアンがオーストラリアに来たのはオーストラリア建国200周年の1988年。
メシアンは旅するときは必ずマダム・ロリオと一緒だった・・・というのをどこかで読みましたが来豪のときも一緒だったそう。
で、そのときにメルボルンに来て、メルボルン大学のMelba Hallでコンサートが開かれ、ロリオ夫人が弾いたりメシアンが話したりしたのを先生が聴きに行ったそうです。
1988年というとメシアンはちょうど80歳。先生は去年70歳の誕生日コンサートをやったということは当時47歳。
メシアンは作曲家・オルガニストであり、敬虔なクリスチャン(基本カトリックで自然信仰など主流のキリスト教の信仰とは違う部分もあります)であり、そして鳥類学者でもありました。
彼が住んでいたフランスのみならず世界のいろんな場所で鳥の鳴き声を楽譜に起こして記録し、例えば「鳥のカタログ」(フランスの鳥たち)や「七つの俳諧」(日本の鳥たち)などの作品に取り入れたのです。
オーストラリアというのはコアラ、カンガルーなどの有袋類に限らず独特の生物(植物・動物)が独自の生態系を作り上げています。もちろん生息している鳥の種類も独特。ワライカワセミとかコトドリとか、それからセキセイインコを始めとするペットとして知られるインコ・オウム類の多くはオーストラリアが原産だったり。
(逆にその独特な種類のためメシアンが曲に使う鳥の多くはこちらでは直接見る・聴くことができないです)
なのでメシアンはオーストラリアの鳥たちに興味津々だったそうです。
(Melba Hallで話したときも「私は鳥が本当に好きで」みたいなことを言ったら先生始め聴衆が「うんうん、知ってるー」みたいなリアクションだったそうです)
ネットで探したらメシアンが来豪したのは冬周りだったため、多くの鳥の繁殖期から外れていて落胆した、との話もありましたが先生の話によるとフランスで聴くのとはかなり違う種類の鳥の声が聞けて興味深かった、と話していたそう。
(メシアンがマグパイの声を聴いてどう思ったのかが知りたかったな-。ちなみにオーストラリアでいうマグパイ(≠カササギ)の鳴き声はここの動画・音声で。私が知っている鳥の鳴き声では美しさのトップクラスです)
メシアンはメルボルンでは、というか郊外になりますがMt. DandenongのSherbrooke Forestに行ってコトドリ(Lyrebird)の鳴き声を聞いたそうです(野生で姿を見るのは難しいですが声だけならそんなに珍しくはないです)。コトドリは他の鳥の声やその他いろんな音(人工音まで)を物まねすることで有名ですが、メシアンはどんなコトドリの歌を聴いたのか気になりますね。
ちなみに私がSherbrooke Forestでコトドリの鳴き声を聞いたときはワライカワセミの鳴き声を真似してました(本物も聞こえました)。
そんなオーストラリアから持ち帰った鳥の声はメシアンが最後に完成させたオケ曲「彼方の閃光」(フランス語で「Eclairs sur l'Au-dela...」、1987~1991年作曲)に織り込まれています。
第3楽章の「コトドリと結婚の都」という楽章ではそのタイトル通りコトドリの鳴き声、それからワライカワセミの鳴き声(すぐわかります)も聞こえます。調べてみるとどうやらメシアンはこの曲の初演を聴くことがなかったようなのが残念。
ちなみにこのブログでも書いてるかもしれませんが去年メル響で以前首席指揮者を務めていたMarkus Stenzのカムバックミニシリーズで、プログラムが秘密になっていた最終コンサート(Act Three)ではこの「彼方の閃光」が演奏されました。(メル響とAustralian Youth Orchestraのコラボでこの大編成&複雑な名曲を演奏したのですが、私はラジオで聴いてるだけでした)
メルボルンに縁のある曲というのは結構少ないので(笑)とっても貴重なレパートリーだと思います。
メシアンも最近はここらではそんなにキワモノ扱いされなくなってきたというか玄人好みのコアなレパートリーに入って来た印象があるのですが、今日先生に聞いたら先生の生徒でメシアンを弾いてるピアニストはいないそうで(常に勧めてはいるとのことです)。
若いころにロマン派の情熱的な音楽に共感したり、ピアノを極めるピアニズムの王道を進んでいるとなかなかとっつきづらいものなのかなあ。曲自体の難しさ・複雑さ(技巧だけでなく頭での部分も)もあるのですが。
先生だけでなくラリアで一番クレイジーなピアニストである我らが(?)Michael Kieran Harveyもまたメシアンの音楽を愛する一人。私が在学中に「鳥のカタログ」を弾いてた以来彼がメシアンを弾くのを聴いていませんが、やっぱりこの国でメシアンといったらマイケル、なんですよね。
そしてメシアンを弾く人はいてもそのほとんどが「20のまなざし」を弾いてて、「鳥のカタログ」に関してはマイケルと自分以外で弾いてる人に出会ったことがない、という状態。鳥カタはピアノの曲としてはまた別のものが求められてそれが難しかったりするし、鳥カタが求めてるものをなかなかピアニストが求めないというか・・・うーん。
だからもっとオーストラリアのピアニストはメシアンを弾くといいと思うんですよ。
そして日本に関しても、メシアンの宗教観というか思想というか、自然に対するアプローチは日本の伝統的なそれとものすごく近いものがあるので、もっとメシアンに近づいてほしい、と思うのです。
(「七つの俳諧」がメシアン玄人でもとっつきにくい曲であるということのネガティブインパクトはあれど)
そんなことを自分の中で叫んでいたら今月末(イースター前)に国立アカデミーであるメシアンのコンサートのチケットが届きましたよ。
イギリスのメシアン弾き、Peter Hillを迎えて国立アカデミーの生徒たちとメシアンを中心にしたプログラムのコンサート。楽しみ!
9時コンサートで8時にトークがあるそうなので是非トークから聴きに行きたいです。
大学時代は私といったらメシアン、という認識が直接の知り合いに限らず結構広まってたみたいで、その特別な感じというか独占感もなんとなく気持ちいいですし、リストとかベートーヴェンみたいにものすごく伝統がしっかり根付いてたり、ピアニスト同士の競争があったり、そういうことがない自分のフィールドとしてあるのもいいのですが・・・
たまーにやっぱり寂しくなりますし、あと単純に素晴らしい音楽だからもっと弾かれて、もっと広い層の人の耳に入る&馴染むようになってほしいですよ。
クラムもそうですが(クラム同士はいつでも大歓迎)メシアンも本当にそう。
もっとメシアンの音楽が愛されるように、南半球の片隅で私もちょこちょこやってきます。
今日の一曲: クロード・ドビュッシー 「映像」第2集 「葉ずえを渡る鐘」
先生が弾いてる録音リンク
こんだけメシアンひっぱっといてなんですが、今日レッスンで弾いた曲から。
ドビュッシーの「映像」第2集は全3曲から成っていますが、その内の2曲が東洋モチーフ。で、この第1曲「葉ずえを渡る鐘」だけが東洋じゃない。おそらく西洋。
ただこの最初の全音階(=西洋の伝統的な音階とは違う)の鐘の響きだったり、ドビュッシー得意のどの調でもない曖昧なハーモニーなんかを聴くとどうも西洋の教会の鐘の音を連想するのが容易ではない。で、ちょうど他の2曲が東洋風だからイメージがそっちに引っ張られてしまう。
そんな経緯で未だにこの曲の「イメージ」(映像=Images、なのですが)がつかめていないわけです。
先生が言うにこれの第3曲の「金色の魚」をドビュッシー展で実際に見たように視覚的な「絵」をどこかで探してみればいいんじゃないか、と。ドビュッシーが意図した視覚的イメージじゃなくても
自分のこの曲の解釈を表すような画像をどこかで探してみたら良いんじゃないかと言われ。
(おそらくぐーぐるさんにお世話になるかと)
それからこの曲と同じく複数の種類の鐘の音をモチーフとしたラヴェルの「鏡」の最終楽章「鐘の谷」との比較も先生と話してました。先生曰くこっち(ドビュッシー)の方が「Imaginative」だと。確かにそうなんですよね。ラヴェルの方は割とリアルというか、鐘の音を重ねることで風景を描写するけれど、その他の風景の描写をしていないというか。この曲は割と鐘の音以外の部分も描き入れている感じ。
(ただ自分はその「いかに鐘の音だけで」みたいな部分だったり、響きだけで色々表現の実験ができる余裕があるラヴェルの方が好きだったりします)
ということでちょっと不思議な曲なのですが、後半の鐘の音が輝きながらころころと下降する部分の美しさったらたまらないです。なんというかやっぱり「映像」はドビュッシーの良いところが味わえるなあ、と。
そしてどれも長い曲ではないので「映像」第2集の他の2曲、さらに「映像」第1集の全3曲もおすすめ。先生の録音リンクしちゃいます。試聴がある第1集の「水の反映」はこのCDの中で自分的にベスト。
(だいぶちらかったので次回は要改善ですね)
ちょっとここ数日精神が故障気味です。おそらく季節の変わり目。
しかし気分が沈むのに加えて情緒不安定というか易刺激性・軽躁の傾向・不安などがやってくるのが厄介。今を乗り切るのもそうですがこれからの季節をなんとかsurviveしなきゃいけないので、なかなか今の不調は悩みどころ。
そんな中ピアノのレッスンに行ってきました。
およそ半年ぶり、今やってるプログラムを初めて先生に聞かせるレッスンでした。
今日はドビュッシーとフォーレをちょこちょこっと弾いたのですが(まあそこそこに弾けました。そして色々アドバイスをいただきました)、メシアンの話もしました。
先生がメシアンを弾いたのを聴いたことはないのですが、「20のまなざし」からはいくつか弾いているらしいんですよね。
そして先生はメシアンに会ってる(少なくとも直接みている)とのことで。
そのことは前からちょこちょこ聞いていたのですが今日は改めてまとめてみたいと思います。
メシアンがオーストラリアに来たのはオーストラリア建国200周年の1988年。
メシアンは旅するときは必ずマダム・ロリオと一緒だった・・・というのをどこかで読みましたが来豪のときも一緒だったそう。
で、そのときにメルボルンに来て、メルボルン大学のMelba Hallでコンサートが開かれ、ロリオ夫人が弾いたりメシアンが話したりしたのを先生が聴きに行ったそうです。
1988年というとメシアンはちょうど80歳。先生は去年70歳の誕生日コンサートをやったということは当時47歳。
メシアンは作曲家・オルガニストであり、敬虔なクリスチャン(基本カトリックで自然信仰など主流のキリスト教の信仰とは違う部分もあります)であり、そして鳥類学者でもありました。
彼が住んでいたフランスのみならず世界のいろんな場所で鳥の鳴き声を楽譜に起こして記録し、例えば「鳥のカタログ」(フランスの鳥たち)や「七つの俳諧」(日本の鳥たち)などの作品に取り入れたのです。
オーストラリアというのはコアラ、カンガルーなどの有袋類に限らず独特の生物(植物・動物)が独自の生態系を作り上げています。もちろん生息している鳥の種類も独特。ワライカワセミとかコトドリとか、それからセキセイインコを始めとするペットとして知られるインコ・オウム類の多くはオーストラリアが原産だったり。
(逆にその独特な種類のためメシアンが曲に使う鳥の多くはこちらでは直接見る・聴くことができないです)
なのでメシアンはオーストラリアの鳥たちに興味津々だったそうです。
(Melba Hallで話したときも「私は鳥が本当に好きで」みたいなことを言ったら先生始め聴衆が「うんうん、知ってるー」みたいなリアクションだったそうです)
ネットで探したらメシアンが来豪したのは冬周りだったため、多くの鳥の繁殖期から外れていて落胆した、との話もありましたが先生の話によるとフランスで聴くのとはかなり違う種類の鳥の声が聞けて興味深かった、と話していたそう。
(メシアンがマグパイの声を聴いてどう思ったのかが知りたかったな-。ちなみにオーストラリアでいうマグパイ(≠カササギ)の鳴き声はここの動画・音声で。私が知っている鳥の鳴き声では美しさのトップクラスです)
メシアンはメルボルンでは、というか郊外になりますがMt. DandenongのSherbrooke Forestに行ってコトドリ(Lyrebird)の鳴き声を聞いたそうです(野生で姿を見るのは難しいですが声だけならそんなに珍しくはないです)。コトドリは他の鳥の声やその他いろんな音(人工音まで)を物まねすることで有名ですが、メシアンはどんなコトドリの歌を聴いたのか気になりますね。
ちなみに私がSherbrooke Forestでコトドリの鳴き声を聞いたときはワライカワセミの鳴き声を真似してました(本物も聞こえました)。
そんなオーストラリアから持ち帰った鳥の声はメシアンが最後に完成させたオケ曲「彼方の閃光」(フランス語で「Eclairs sur l'Au-dela...」、1987~1991年作曲)に織り込まれています。
第3楽章の「コトドリと結婚の都」という楽章ではそのタイトル通りコトドリの鳴き声、それからワライカワセミの鳴き声(すぐわかります)も聞こえます。調べてみるとどうやらメシアンはこの曲の初演を聴くことがなかったようなのが残念。
ちなみにこのブログでも書いてるかもしれませんが去年メル響で以前首席指揮者を務めていたMarkus Stenzのカムバックミニシリーズで、プログラムが秘密になっていた最終コンサート(Act Three)ではこの「彼方の閃光」が演奏されました。(メル響とAustralian Youth Orchestraのコラボでこの大編成&複雑な名曲を演奏したのですが、私はラジオで聴いてるだけでした)
メルボルンに縁のある曲というのは結構少ないので(笑)とっても貴重なレパートリーだと思います。
メシアンも最近はここらではそんなにキワモノ扱いされなくなってきたというか玄人好みのコアなレパートリーに入って来た印象があるのですが、今日先生に聞いたら先生の生徒でメシアンを弾いてるピアニストはいないそうで(常に勧めてはいるとのことです)。
若いころにロマン派の情熱的な音楽に共感したり、ピアノを極めるピアニズムの王道を進んでいるとなかなかとっつきづらいものなのかなあ。曲自体の難しさ・複雑さ(技巧だけでなく頭での部分も)もあるのですが。
先生だけでなくラリアで一番クレイジーなピアニストである我らが(?)Michael Kieran Harveyもまたメシアンの音楽を愛する一人。私が在学中に「鳥のカタログ」を弾いてた以来彼がメシアンを弾くのを聴いていませんが、やっぱりこの国でメシアンといったらマイケル、なんですよね。
そしてメシアンを弾く人はいてもそのほとんどが「20のまなざし」を弾いてて、「鳥のカタログ」に関してはマイケルと自分以外で弾いてる人に出会ったことがない、という状態。鳥カタはピアノの曲としてはまた別のものが求められてそれが難しかったりするし、鳥カタが求めてるものをなかなかピアニストが求めないというか・・・うーん。
だからもっとオーストラリアのピアニストはメシアンを弾くといいと思うんですよ。
そして日本に関しても、メシアンの宗教観というか思想というか、自然に対するアプローチは日本の伝統的なそれとものすごく近いものがあるので、もっとメシアンに近づいてほしい、と思うのです。
(「七つの俳諧」がメシアン玄人でもとっつきにくい曲であるということのネガティブインパクトはあれど)
そんなことを自分の中で叫んでいたら今月末(イースター前)に国立アカデミーであるメシアンのコンサートのチケットが届きましたよ。
イギリスのメシアン弾き、Peter Hillを迎えて国立アカデミーの生徒たちとメシアンを中心にしたプログラムのコンサート。楽しみ!
9時コンサートで8時にトークがあるそうなので是非トークから聴きに行きたいです。
大学時代は私といったらメシアン、という認識が直接の知り合いに限らず結構広まってたみたいで、その特別な感じというか独占感もなんとなく気持ちいいですし、リストとかベートーヴェンみたいにものすごく伝統がしっかり根付いてたり、ピアニスト同士の競争があったり、そういうことがない自分のフィールドとしてあるのもいいのですが・・・
たまーにやっぱり寂しくなりますし、あと単純に素晴らしい音楽だからもっと弾かれて、もっと広い層の人の耳に入る&馴染むようになってほしいですよ。
クラムもそうですが(クラム同士はいつでも大歓迎)メシアンも本当にそう。
もっとメシアンの音楽が愛されるように、南半球の片隅で私もちょこちょこやってきます。
今日の一曲: クロード・ドビュッシー 「映像」第2集 「葉ずえを渡る鐘」
先生が弾いてる録音リンク
こんだけメシアンひっぱっといてなんですが、今日レッスンで弾いた曲から。
ドビュッシーの「映像」第2集は全3曲から成っていますが、その内の2曲が東洋モチーフ。で、この第1曲「葉ずえを渡る鐘」だけが東洋じゃない。おそらく西洋。
ただこの最初の全音階(=西洋の伝統的な音階とは違う)の鐘の響きだったり、ドビュッシー得意のどの調でもない曖昧なハーモニーなんかを聴くとどうも西洋の教会の鐘の音を連想するのが容易ではない。で、ちょうど他の2曲が東洋風だからイメージがそっちに引っ張られてしまう。
そんな経緯で未だにこの曲の「イメージ」(映像=Images、なのですが)がつかめていないわけです。
先生が言うにこれの第3曲の「金色の魚」をドビュッシー展で実際に見たように視覚的な「絵」をどこかで探してみればいいんじゃないか、と。ドビュッシーが意図した視覚的イメージじゃなくても
自分のこの曲の解釈を表すような画像をどこかで探してみたら良いんじゃないかと言われ。
(おそらくぐーぐるさんにお世話になるかと)
それからこの曲と同じく複数の種類の鐘の音をモチーフとしたラヴェルの「鏡」の最終楽章「鐘の谷」との比較も先生と話してました。先生曰くこっち(ドビュッシー)の方が「Imaginative」だと。確かにそうなんですよね。ラヴェルの方は割とリアルというか、鐘の音を重ねることで風景を描写するけれど、その他の風景の描写をしていないというか。この曲は割と鐘の音以外の部分も描き入れている感じ。
(ただ自分はその「いかに鐘の音だけで」みたいな部分だったり、響きだけで色々表現の実験ができる余裕があるラヴェルの方が好きだったりします)
ということでちょっと不思議な曲なのですが、後半の鐘の音が輝きながらころころと下降する部分の美しさったらたまらないです。なんというかやっぱり「映像」はドビュッシーの良いところが味わえるなあ、と。
そしてどれも長い曲ではないので「映像」第2集の他の2曲、さらに「映像」第1集の全3曲もおすすめ。先生の録音リンクしちゃいます。試聴がある第1集の「水の反映」はこのCDの中で自分的にベスト。
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