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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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国立音楽アカデミーのメシアンコンサート感想。
行ってきましたコンサート!
オーストラリア国立音楽アカデミー(ANAM)でイギリスのメシアン弾きピアニスト、Peter Hillをゲストに迎えアカデミーの生徒・教員と共演もあったコンサート。
プログラムはこんな感じ:

メシアン オンド・マルトノとピアノのための「未刊の音楽帖」より第1番
メシアン 前奏曲集より第1番「鳩」
メシアン カンテヨジャーヤ
メシアン オンド・マルトノとピアノのための「未刊の音楽帖」より第4番

バッハ 「平均律クラヴィーア曲集」より
第1巻 第1番 (ハ長調)
第2巻 第3番 (嬰ハ長調)
第2巻 第10番 (ホ短調)
第2巻 第4番 (嬰ハ短調)
第1巻 第24番 (ロ短調)

メシアン アーメンの幻影

今回のコンサートは9時開演とちょっと遅め。その代わり、というか8時からゲストPeter Hillによるコンサート前トークがありました。
彼はメシアンの作品を多く演奏してきただけでなくメシアンの奥さん、故ロリオ夫人とインタビューなどで直接お話したりもしたそうで、たくさん面白い話を知ってました。(あとオーストラリアでのフットボール事情で冗談飛ばしたり、わかってらっしゃる(笑))
今回演奏された「アーメンの幻影」や「20のまなざし」が作曲された時代、1940年のパリがナチスの統治下にあったこと、戒厳令によって夜に出歩くのが困難になった中でも作曲活動、演奏活動は活発に行われたこととか。
メシアンがサン・トリニテ教会のオルガニストになった経緯(前衛的な音楽を持ち込まない、と手紙を書いたそうです)、そして最初の奥さんとの関係、そしてパリ国立音楽院に就任したときのこと、ロリオ夫人との出会い、そして作曲のことやメシアンが亡くなったときのことまで。
そしてロリオ夫人から聴いたという結婚当時のこと。メシアンとロリオ夫人が結婚したのは最初の夫人が亡くなってから2年のこと。世間体を気にしてなのかな、内密に身内の少人数だけで結婚の式だけあげたそうなのですが、その時に2人が教会から出たら入り口のところでクロウタドリがさえずっていったそうで、それを2人は天の祝福と受け取ったとのことです。

コンサート前のトークはホールとは別の部屋で行われたのですが、当初予定していた人数を大幅に超える人が来て部屋が結構ぎゅうぎゅう詰めに。コンサート自体も聴衆はホールの前半分だけを(広めに)使うレイアウトだったのですが、ほぼ満員。
ちなみに今回「未刊の音楽帖」でオンド・マルトノを演奏したのは一昨年ユースオケのトゥーランガリラでオンド・マルトノを演奏した男の子。彼は今回ピアノも弾きましたよ。

Peter Hillのメシアンの演奏はなんというか、「柔」でしたね。全体的に柔らかい感じがあって、リズムもしっかりしてるのですが(特にカンテヨジャーヤで)、ハーモニーや色彩の溶け合いやタッチが優しい。カンテヨジャーヤではちょっとリズムが前のめりな感じが親しみ深かったです。

そしてメシアンのまっただ中のバッハ。どうしてバッハを入れたかなんとなーく分かるような分からないようなのですが、演奏はおもしろかったです。ゲストが最初と最後の曲、生徒3人が真ん中の3曲を一曲ずつ弾いたのですが、奏者それぞれの解釈が面白かった。
特に各曲(前奏曲+フーガ)の前奏曲部分が割とオーソドックスじゃない解釈の演奏が多くて。ただ割と長い曲ばかりのチョイスだったのがこの時間・このプログラムだと長く感じたかなあ。

「アーメンの幻影」は2台のピアノのために書かれていますが、生徒6人が7つの楽章を代わる代わる第1パートを担当して、ゲストが第2パートを全楽章担当するというフォーマットでした。(なるべく多くの生徒にレパートリーに触れたり演奏したり経験を与えるのもあると思いますし、練習時間が限られてるのもあると思われます)
第1パートは難しい方のパート(=ロリオ夫人が弾く方のパート。第2はメシアン自身が弾く用)で、さらに2人のアンサンブルが大変難しい曲なのですが素晴らしい演奏でした。特に第6・7楽章でトリをつとめた前述オンド・マルトノの彼の演奏にはびっくりしました。頭一つ抜きんでてますね、今回演奏したアカデミーの生徒達でも。技巧はもちろん、センスがあるというか表現が正確。

・・・ここしばらく「表現の正確さ・精密さ」というフレーズを使うことが多いですが、それは必ずしも楽譜に、そして作曲家の意図に忠実に、ということを指しているのではないです。それよりも奏者自身が思っていること、表現したいこと、弾くことを通じてやりたいことがどれだけ鮮明に、正確に聞き手に伝わってくるか・・・ということを意味しています。作曲家の意図を汲むのも含まれていますし、あえて違うことをするというのも含まれてますし、迷いの無さというか、conviction、convincingな性質も含まれていて。自分の演奏にそれが一番足りないなと自覚してるので最近特に気にしているのです。

帰りもちょっと遅かったですが久しぶりに生メシアンが聴きに行けて(そして勉強になって)よかったです。これを機にもっとメシアン弾きピアニストがメルボルンで増えるといいなあ・・・とか思ってるんですが。(有望な奏者もいますしねー)
「アーメンの幻影」もだれか一緒に弾く人を見つけていつか演奏したいですねー。このブログでほとんど触れてませんがすごい好きな曲なのですよ。そしてメシアンのレパートリーの中でかなり大事な曲なのです。今日の一曲でちょっと紹介します。


今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「アーメンの幻影」 第3楽章「イエスの苦悩のアーメン」



メシアンがピアノ2台のために書いた「アーメンの幻影」。パリ国立音楽院で和声(ハーモニー)について教えていたメシアンはその教室で生徒だったロリオ夫人のピアノの才能を高く評価するようになり、彼女のためにピアノ曲を書くようになったのですが、その第1号だったのがこの作品。
先ほど書きましたようにロリオ夫人が第1パート、メシアンが第2パートを弾くように作曲されていて、従来の(そしてどんな時代の)ピアノ2台の作品とは違って第1パート、第2パートの内容がかなり違う、とってもunevenな作りになっています(でもそれぞれのパートが偏っても全体としてはちゃんと成り立ってます)。
第1パートは色彩や「時」の描写、鳥の歌などの技巧やディテールが主で、第2パートが繰り返し現れるテーマなど音楽的なストーリーラインというか、そういう部分。(なので第1パートの方が難しいけれど第2パートはソロが多かったりします)

で、7つの楽章のそれぞれが「○○のアーメン」というフォーマットになっていて、アーメン=そうありますように、Let it be、神の心のままに、などなどの意味合いがありますが様々なニュアンスの「アーメン」を各楽章が表しています。
この「イエスの苦悩のアーメン」はタイトルから分かるとおりイエスが受難において感じる苦悩、迷い、そして最終的に父である神の仰せのままに、と苦しみ・死を負うことを受け入れる「アーメン」です。

去年弾いた「十字架のまなざし」とものすごく似てるんですよね。曲調だったり、半音の動きで苦しみを表すのとか、ハーモニーや色調とか、エンディングの和音とか。こういう痛々しさはメシアンもあんまりたくさん使わないのですが(基本明るい方向観てますね、あの人は)、同時にこういうパーソナルな規模の苦しみの表現の仕方ってメシアン以外ではあんまり見ませんね。(いろんな作曲家がいろんな苦悩の表現をして、それはまた面白いのですが)

で、「十字架のまなざし」になくてこの曲にあるのがその「苦しみを受け入れる」部分。曲の最後の方に静寂が訪れ、そしてピアノの低音が聞こえ、第1楽章のテーマが戻ってくるのですが、それが神の意志というかを表していて。かすかに聞こえるその響きがとても美しいです。

なかなかクリスチャンじゃないとイエスの受難の苦しみに共感する、というのはあまり好ましいことではないと思われるのですが(もちろん私も何度も言ってるように無神論者ですよ)、一人の人間としての信じるものと苦しみとの葛藤だったり、そういうことは誰にでもあることで。それらに触れ、音楽でそれを表現するのに触れるのもまた面白いことだと思います。
以前「メシアンの作品が受け入れられないのは宗教的な意味合いも大きいのかもしれない」というようなことを書きましたが、メシアンの音楽にしても他の宗教的な芸術作品にしても宗教以外の意味合いだったり、考え方があったりすると思うので。そこでの壁をなんとかできたらな。

録音はメシアン夫婦演奏のを。mp3であったので。


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