×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
前回のエントリーに拍手ありがとうです~
今日のエントリーはだいぶ前書いた「精神的に調子が悪いときのピアノの練習」についてのエントリーの続きのような感じで書きたいことがありまして(ちょこちょこアクセスがあるようで大変ありがたいです。自分でも気に入ってるエントリーです)。前回ほどまとまってはいませんが今日ちょっと思ったことを。
今日はなんだかちょっとぶりに鬱らしい、典型的な鬱の落ち込み方でしたね。
結構ぼーっとなってたので夕方は車があったにも関わらず歩いて買い物に行きました。
こういう状態のときは出かける準備をするのにも買い物をするにももたつくのですが買わなきゃならないもんは買わなきゃならないもので。
こういう心持ちのときは後期ロマン派の暗い曲に心が特別共鳴します。良くも悪くも10代の時のようですね。久しぶりにマーラーの6番の第2楽章を聴いてその感じ方の違いにびっくりしました。
他にもラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、リヒャルト・シュトラウス、ブラームスなんかがこういう状態にはうまく響きます。
その共鳴・共感が聞き手にとって良い影響になるか、悪い影響になるかは個人の心の状態、そして自分の心とどれくらい&どう対処できるかによるので、必ずしもこういう音楽を聴くことが良い影響になるとは言い切れませんが。
そしてピアノの練習ももろに精神的不調の影響を受けていますね。
集中力の低下が著しくて、あと自分の音がちゃんと聞こえていない=弾きながらフィードバックが得られなくなるのもかなりこたえます。客観的・批判的・分析的に自分の演奏を聴いて練習することができないのも大きくスローダウンする原因になったり。
今日初めて気づいたのですが鬱方向に調子が悪い時でもピアノを弾くテンポは速くなりがちですね。
不安(演奏時を含む)を感じていたり、軽躁の時にテンポが速くなるのは分かるのですが鬱なら全体的にのろのろするので遅くなるのでは?と思っていたのですがどうもこれは指のコントロールが弱まった結果指が先走りしたりする、ということなのではないかと。厄介。
ただ鬱状態ではのろのろする事が多いのも確かです。
自分の音(間違えた音など)に反応するのも遅れますし、体を動かすのも遅れることが多いです。
自分の音を聞きながら楽譜を見て先を考えて、といつも通りやっているはずなのに弾く・実行する側に遅れがでる。
特に今日だとメシアンの鳥カタの「ヒメコウテンシ」でちょこちょこっと体に瞬発的に力を入れることでアクセントをつけるようなところがあって、そのタイミングが感覚的にものすごく大変だったり。
上手く神経を伝わってないな、という感じなんですよね。
心・体・頭それぞれもうまく働いてないながらそのつながりも故障しているということです。
そんな中で調子が比較的良いときではできない、調子悪い状態でしか見られない弾き方(良い意味で)もあるんですよね。
なかなかそれを説明するのは難しいのですが、そういう状態での考えすぎないこと、体の力が入りすぎないことで出せる音だったり、できる表現もあるのかな、と。
そういう独特の表現(そして感じ方)を精神の調子にかかわらずいつでも出せるようにするのはとても難しいです。音楽に限らず調子が悪い時ならではの大事なことをそれ以外の時に生かすのは本当に難しいことで、シューマンとかマーラーとか著名な作曲家を始め、芸術家達がそれぞれの形でそういうことを生かしてるのはやっぱりすごいなあ・・・と思います。
良いこと悪いこと両方ありますが、練習が思うようにいかない、思うように弾けない、毎日の練習で良くなってるのが感じられない、というのはそれなりにストレスです。
前回の「調子が悪い時の練習」のエントリーでも書きましたが、こういうstuck・スローダウンな時でも自分を責めすぎない、ストレスしすぎない、というのは大切です。
今現在の自分はそういう意味では結構うまくやりすごしているかな。まだリサイタルの具体的な予定も立ててませんし、他の曲に目移りしたりしてませんし、まだ時間はあるということで。
とりあえずは月曜日のレッスンに向けて練習を続けたいと思います。
今日の一曲: ガブリエル・フォーレ 「ドリー」組曲 第3楽章「ドリーの庭」
ちょっと小編成が続くような(汗)これも心の状態の現れでしょうか(聴く分には必ずしもそうでないのですが)。
ちょうどこないだのGrigoryan Brothersのコンサートのことを父と話していて、二人の音の違いを話していたら「Together」「Together Again」でのJohn WilliamsとJulian Breamのデュエットでの音の違いの話になり、結果的に自分はこの2人のギタリストの音をどっかで逆に覚えていたことが判明し。
自分を戒める意味でこのCDから選びました。
父が言ってたのはJohn Williamsの演奏がどっちかというと指の肉々しい丸い音で(セゴヴィアのスタイルを受け継いで、とのことです)、Julian Breamの音はもっと爪が入っている音だそうで。
どんな楽器のアンサンブルでもそうですが、どんなに音が異なっても一緒の音楽を奏でることでまた音の色が変わるのが面白いですね。
複数の人が一緒に楽器を奏でたり、歌ったりするときには音を出すタイミングを合わせるだけじゃなくてお互いの音の質や響きによく耳を傾けて溶け合うようにすることが大事で。
そのアンサンブルでの「聴く」「溶け合わせる」部分がこの「ドリーの庭」の演奏ではよく現れているような気がします。
フォーレの音楽の魅力である暖かく移り変わる色彩を、ギター独特の響きで聴くのはピアノともオケとも違う心地よさがあります。(あとキーが違うのも新鮮味と別の暖かみがあって良いですね)
なので今回は音楽自体だけでなく奏でられている音、指が弦に触れる音だったり曲が始まる前の間などからもっと「奏者」と「奏者同士の掛け合い」を感じて欲しくてこの曲を選びました。このCD「Together」の他の楽曲(ならびに「Together Again」の楽曲)でもそのアンサンブルの駆け引きだったり、演奏における人間の部分が色々感じられると思います。
(リンクして気づいたのですが日本語版はタイトル違うんですね)
あ、でも今気づいたのですがGrigoryan Brothersの「Distance」からもまた一曲紹介したかったんだった。またギターデュオ、そしてまた小編成になってしまう(汗)
PR
今日のエントリーはだいぶ前書いた「精神的に調子が悪いときのピアノの練習」についてのエントリーの続きのような感じで書きたいことがありまして(ちょこちょこアクセスがあるようで大変ありがたいです。自分でも気に入ってるエントリーです)。前回ほどまとまってはいませんが今日ちょっと思ったことを。
今日はなんだかちょっとぶりに鬱らしい、典型的な鬱の落ち込み方でしたね。
結構ぼーっとなってたので夕方は車があったにも関わらず歩いて買い物に行きました。
こういう状態のときは出かける準備をするのにも買い物をするにももたつくのですが買わなきゃならないもんは買わなきゃならないもので。
こういう心持ちのときは後期ロマン派の暗い曲に心が特別共鳴します。良くも悪くも10代の時のようですね。久しぶりにマーラーの6番の第2楽章を聴いてその感じ方の違いにびっくりしました。
他にもラフマニノフ、ショスタコーヴィチ、リヒャルト・シュトラウス、ブラームスなんかがこういう状態にはうまく響きます。
その共鳴・共感が聞き手にとって良い影響になるか、悪い影響になるかは個人の心の状態、そして自分の心とどれくらい&どう対処できるかによるので、必ずしもこういう音楽を聴くことが良い影響になるとは言い切れませんが。
そしてピアノの練習ももろに精神的不調の影響を受けていますね。
集中力の低下が著しくて、あと自分の音がちゃんと聞こえていない=弾きながらフィードバックが得られなくなるのもかなりこたえます。客観的・批判的・分析的に自分の演奏を聴いて練習することができないのも大きくスローダウンする原因になったり。
今日初めて気づいたのですが鬱方向に調子が悪い時でもピアノを弾くテンポは速くなりがちですね。
不安(演奏時を含む)を感じていたり、軽躁の時にテンポが速くなるのは分かるのですが鬱なら全体的にのろのろするので遅くなるのでは?と思っていたのですがどうもこれは指のコントロールが弱まった結果指が先走りしたりする、ということなのではないかと。厄介。
ただ鬱状態ではのろのろする事が多いのも確かです。
自分の音(間違えた音など)に反応するのも遅れますし、体を動かすのも遅れることが多いです。
自分の音を聞きながら楽譜を見て先を考えて、といつも通りやっているはずなのに弾く・実行する側に遅れがでる。
特に今日だとメシアンの鳥カタの「ヒメコウテンシ」でちょこちょこっと体に瞬発的に力を入れることでアクセントをつけるようなところがあって、そのタイミングが感覚的にものすごく大変だったり。
上手く神経を伝わってないな、という感じなんですよね。
心・体・頭それぞれもうまく働いてないながらそのつながりも故障しているということです。
そんな中で調子が比較的良いときではできない、調子悪い状態でしか見られない弾き方(良い意味で)もあるんですよね。
なかなかそれを説明するのは難しいのですが、そういう状態での考えすぎないこと、体の力が入りすぎないことで出せる音だったり、できる表現もあるのかな、と。
そういう独特の表現(そして感じ方)を精神の調子にかかわらずいつでも出せるようにするのはとても難しいです。音楽に限らず調子が悪い時ならではの大事なことをそれ以外の時に生かすのは本当に難しいことで、シューマンとかマーラーとか著名な作曲家を始め、芸術家達がそれぞれの形でそういうことを生かしてるのはやっぱりすごいなあ・・・と思います。
良いこと悪いこと両方ありますが、練習が思うようにいかない、思うように弾けない、毎日の練習で良くなってるのが感じられない、というのはそれなりにストレスです。
前回の「調子が悪い時の練習」のエントリーでも書きましたが、こういうstuck・スローダウンな時でも自分を責めすぎない、ストレスしすぎない、というのは大切です。
今現在の自分はそういう意味では結構うまくやりすごしているかな。まだリサイタルの具体的な予定も立ててませんし、他の曲に目移りしたりしてませんし、まだ時間はあるということで。
とりあえずは月曜日のレッスンに向けて練習を続けたいと思います。
今日の一曲: ガブリエル・フォーレ 「ドリー」組曲 第3楽章「ドリーの庭」
ちょっと小編成が続くような(汗)これも心の状態の現れでしょうか(聴く分には必ずしもそうでないのですが)。
ちょうどこないだのGrigoryan Brothersのコンサートのことを父と話していて、二人の音の違いを話していたら「Together」「Together Again」でのJohn WilliamsとJulian Breamのデュエットでの音の違いの話になり、結果的に自分はこの2人のギタリストの音をどっかで逆に覚えていたことが判明し。
自分を戒める意味でこのCDから選びました。
父が言ってたのはJohn Williamsの演奏がどっちかというと指の肉々しい丸い音で(セゴヴィアのスタイルを受け継いで、とのことです)、Julian Breamの音はもっと爪が入っている音だそうで。
どんな楽器のアンサンブルでもそうですが、どんなに音が異なっても一緒の音楽を奏でることでまた音の色が変わるのが面白いですね。
複数の人が一緒に楽器を奏でたり、歌ったりするときには音を出すタイミングを合わせるだけじゃなくてお互いの音の質や響きによく耳を傾けて溶け合うようにすることが大事で。
そのアンサンブルでの「聴く」「溶け合わせる」部分がこの「ドリーの庭」の演奏ではよく現れているような気がします。
フォーレの音楽の魅力である暖かく移り変わる色彩を、ギター独特の響きで聴くのはピアノともオケとも違う心地よさがあります。(あとキーが違うのも新鮮味と別の暖かみがあって良いですね)
なので今回は音楽自体だけでなく奏でられている音、指が弦に触れる音だったり曲が始まる前の間などからもっと「奏者」と「奏者同士の掛け合い」を感じて欲しくてこの曲を選びました。このCD「Together」の他の楽曲(ならびに「Together Again」の楽曲)でもそのアンサンブルの駆け引きだったり、演奏における人間の部分が色々感じられると思います。
(リンクして気づいたのですが日本語版はタイトル違うんですね)
あ、でも今気づいたのですがGrigoryan Brothersの「Distance」からもまた一曲紹介したかったんだった。またギターデュオ、そしてまた小編成になってしまう(汗)