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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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弾いたコンサートと聴いたコンサート
まずは無事弾いてきました!から。

Stonnington Symphony Orchestra
Malvern Town Hallシリーズ コンサート1
2014年5月31日(土)16時開演
指揮者:Mark Shiell
Frederick Septimus Kelly 弦楽のためのエレジー
ジョージ・バターワース 「緑の枝垂れ柳の岸辺」
エドワード・エルガー チェロ協奏曲(チェロ:Kalina Krusteva)
ヴォーン=ウィリアムズ 交響曲第3番「田園交響曲」(ソプラノ:Alexandra Flood)

演奏まで色んなハプニング・アクシデントがありましたが演奏はなかなかでした。
前半も楽屋で聞こえる分はよかったですし、実際弾いた後半もちゃんとまとまり。チェレスタ弾きとして数少ない音を届けてきました。
やっぱりリハーサルでも本番でもアマチュアとユース精鋭との違いってあるんですけど、でもそれでもいい演奏でした。

ヴォーン=ウィリアムズは奏者には結構評判良かったのですが聴衆的にはどうだったのかな。ヴォーン=ウィリアムズの交響曲はちょっと演奏頻度低いのでもちょっと演奏されるようになればいいな、と密かに思いつつ。
あと今回ハープを弾いてた子(前もどっかで共演してる)と話が弾んで楽しかったです。こないだのオケピアノの話で書くの忘れましたがオケピアニスト・チェレスタ弾きは積極的にハープ奏者と仲良くすると楽しいです。ハープの世界もまた別世界ですしね。

で、一昨日はMelbourne Recital Centreで先生のリサイタルに行ってきました。

ピアノ:Stephen McIntyre
フランツ・シューベルト 3つのピアノ曲
フレデリック・ショパン アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ
フランツ・リスト ピアノソナタロ短調

さすが先生というか、シューベルトの気まぐれさ(と私はいうのですが先生が書いたであろうプログラムの文には様々な感情が混在しているという「同時的」な解釈をしていました)だったり、ショパンの誇り高き繊細さだったり、ピアノらしいピアノのプログラムの中にピアノという楽器とその表現の核を感じました。

中でもリストのソナタの素晴らしいことといったら。
リストが好きでないとかピアノ弾きとしておいおいなことを言いますがそんな私にとってもリストのソナタは別格、というか特別。
音楽であるという以上に命であり人生でありある意味神でもある、言葉で語ることができない音楽と心の直接の対話。ピアノ曲として特別なだけでなく音楽として、一つの作品としてものすごい高みに存在している曲だと思ってます。
(なので聴くにも弾くにも容易に近づけない曲で、この曲を弾くならもっと年を重ねて他諸々成長しないと無理なのですが、でも弾くことにしたとき自分がこの曲にどう立ち向かうか、どう弾くかはちょっと楽しみだったり)

先生のリストは凄かった。魂をまるっと持って行かれました。なんか振り返ってみようとするとあの演奏が別の世界のもののようで。先生がああいう風に演奏するのを聴いたことはなかったかも、色んな意味で。やっぱりピアニストとしてとか音楽家としてとかいう以上に人間としての存在の結晶なんだろうな、あの演奏は。こりゃ一生敵わない、と思いました。

さて、あとは昨日のトリビアナイトの話ですがそれはちょっと長くなりそうなのと今までの文はさっき全部書いて消えてからの書き直しでもう疲れたのでまた次回。(すごい楽しかったのでゆっくり余裕を持って書きたいです)


今日の一曲: ヴォーン=ウィリアムズ 交響曲第3番 第1,2楽章



急ぎなのと1つずつ紹介できる自信がないので残りの楽章まとめて。
一応1ヶ月くらい弾いてきた曲ではありますが諸々の事情で体感的には短い付き合いでした。

聴けば聴くほど美しいながらも同時に地味さが目立つこの交響曲。割と4つの楽章どれも似たような緩い(かならずしも遅くはない)テンポで、どれも調性がはっきりせず似たようなハーモニーを使うなか何を楽しみに聴けばいいかというとその懐かしく切ない響きと、草を揺らして流れていく風のような音楽の流れと、あと具体的にはそこここで現れるソロ楽器の活躍でしょうか。

ほとんどの楽章でコール・アングレやフルートのソロがあったり、ビオラのソロがどっかであったり(どの楽章だっけ(汗))。どの楽器もすっと現れては自分の歌を歌い、また消えて行くようなところがあります。(それは第4楽章の歌のソロも少しそうですね)
そしてそれを時と風の流れとともに運び、過去に押し去っていくように常に音楽を動かす弦の流れ。

あと第2楽章にはトランペットのソロとホルンのソロもあります。このド→ソから始まるメロディーは軍隊のトランペット(ビューグル)の音色を表したもの。オーストラリアでも11月11日の終戦記念日にThe Last Postと呼ばれるビューグルの演奏でおなじみです。
この曲の演奏ではビューグルでなくナチュラル・トランペットというバルブ(キー)のないトランペットを使います。音色だけでなく音程もちょっと独特。

この交響曲に最初に触れて以来色々イメージを自分なりに膨らませようとしていました。
とんでもない規模の戦争が終わって残ったもの、その景色。
戦争で破壊された場所にも、残骸や死体が埋められた跡にもやがてまた雑草が根を張り、緑に変えていく。そしてその緑をたたえ時は流れていく。
最初戦争関連の話を聞く前からなんとなく松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」という句が頭をよぎってたんですよね。ちょっと上記とは性質が違いますが。

あとは今日はっきりしたのですが第4楽章がどうもWilfred Owenの「A New Heaven」という詩のイメージとつながってたり。Owenの詩では一番お気に入りなんですが、人を殺して死んだ兵士たちの魂はどこに安らぎを求めるか、という内容でそれがこの第4楽章の雰囲気とうまく合う。(同じ戦争の話ですしね)

という自分の解釈を長々と書いてしまいましたがヴォーン=ウィリアムズの音楽全般景色を描くというか「景色を求める」のがいいアプローチではないかと思います。みんなどんな景色を見ているんだろう。


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