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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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メシアン ~共感覚~
メルボルンのことが書きたい気分なのにトピックはあるものの中身がまとまらなく。
明日はお出かけなので(仕事が入らなければ)、見聞してこようと思います。

そんなこんなでメシアンの話パート2。

メシアンはいわゆる「共感覚(Synaesthesia)」を持つ作曲家として有名です。
共感覚というのは例えば音を聞くと色が「見える」(この記述だとちょっと不正確なので後で説明します)という感覚や、文字に色がついて「見える」、または音を聞くと味を「感じる」というような・・・要するに一つの感覚にもう一つ別の感覚がついてくる、ということです。
感覚、というのは五感の様々な組み合わせだけではなく温度やさらにはオルガズムも含まれるという分類の仕方もあるそうで(オルガズムを感じたときに色が見える人がいるらしいです)
一応脳のちょっと特殊な/異常な機能なので珍しいものらしいですが、特に害はないもので。

この感覚は実際に視覚的に目に「見える」のではなく、脳の該当領域が刺激されて「見える」ような経験をする・・・といった方が正しいのでしょうか。目から視神経を通って入ってくる情報ではないので。
そのメカニズムもまだ解明されていないことが多く。
うーん・・・説明しにくい感覚です。

とにかくメシアンは音を聞くと色を感じるタイプの共感覚保持者で。(ちなみに共感覚を持っている人のことを英語ではSynaestheteと呼ぶらしいです。未だになぜか私はSynaesthesiaもSynaestheteもちゃんと発音できませんが)
彼が書いた曲のいろんなところや、そして彼が開発した調のシステムのそれぞれの調に至っても彼は色彩を感じ、その感じた色彩=どんな色彩を感じる「べきか」というのを書き入れたりしてるんです。
楽譜に書き入れられたものもありますし、さまざまな文献にてその詳細は容易に見つけることができます。

「べきか」と言いましたが、メシアンは共感覚を持つ人は全て彼と同じように色彩を感じると思っていたそうです。実際には最近の研究で(脳に関する分野の中でも結構新しい研究エリアなんですが)共感覚保持者が感じる「感覚」は人それぞれで、例えば同じ和音を聞いても青の色彩を感じる人もいれば紫を感じる人もいるということがわかっています。

メシアンの感じる色彩はなかなかすごくて。
一番すごい記述がある調の色彩として「透明な硫黄の黄色に薄紫の反射、プルシアンブルーの斑、そして茶色と紫がかった青」というのがあります。
実世界にはないような色の組み合わせ、そしてその詳細さには本当に目が飛び出す思いです。
実際にそこまで詳細に感じることができるのか、というのは本人にしかわかりませんが、私がメシアンのことをすごい!と思うのはその音という時間とともに過ぎ去って行く物を捕まえて色彩を感じ取ることはもちろん、それを実際に言葉で表現できちゃうことです。
そしてそれに加えてその感じた色彩を音で表現できちゃうことです。

なのでメシアンの音楽って本当にビビッドな超現実色彩の洪水の世界なんですよね。
「時の終わりのための四重奏曲」で「時の終わりを告げる天使のための虹の錯乱」と題された楽章がありますが、メシアンの音楽って「虹の錯乱」的なものがいっぱいあります。
色が流れたり、爆発したり、きらきら光ったり・・・そういう音楽を書くメシアンが好きです。

ここから私の話になりますが、私も音に色(やテクスチャ/質感)を感じる共感覚保持者・・・らしく。
実は厳密に言って共感覚なのか、それとも自分の記憶と想像力の反射神経が速いだけなのかあんまり区別は付いていないんですが、とにかく和音を聴くとなんらかのメカニズムにより色を感じることはできます。

他の共感覚保持者の方の話を聞いてるとそうやって別の感覚が作動するのはその人にとっては至って普通のことで、特に何に役に立つとかいうことは考えていない、という人が多いです。
私も前はそうでした。でもメシアンの音楽を知り、彼の共感覚についての話を読み、さらに彼の音楽を愛し専門としてやっていくことを決めたところで自分の共感覚を磨けるものなら磨けないか、利用できるものなら利用できないか、と思い始めました。

先ほども言ったように音は現れては時間と共に消え、「感覚」を感じてもなかなかそれを「しっかり」感じるチャンスを与えてくれません。
共感覚は磨けるか、というのは今でもわかりませんが、でもなんとか自分でその感覚を捕まえて意識的に感じる努力をできるだけしました。(メシアンの音楽だけに限らず)
どんな努力、といわれても具体的には説明しにくいんですけど、自分にしつこいほど「何が見えた?」という風に問うたり、その問いに実際に言葉で答えたり・・・した覚えがあります。

そんなこんなでだんだんはっきりと「色彩」が見えてくると、メシアンの言うほどではなくとも、例えば一つの和音でも一つの色でできている訳じゃないんだな、ってのがわかってきて。
特にメシアンや他の20世紀の音楽で使われる複雑な和音は複雑な色彩の組み合わせで、今でも自分の中で
言葉にするのに間に合わない、言葉と感覚が至らないほどです。

そして「見える色」を利用することも覚えてきました。
例えば上記複雑な和音はちょっと音を間違えて弾いていても気づきにくく、間違えて覚えてしまいやすいですが、音が違えば感じる色彩も違い、その違いは音の違いよりも明らかなのでそれを頼りに音を覚えたりしています。
和音と色の組み合わせを覚えて、ここは記憶によるとこの色だからつまりこの音を弾く・・・ということでは全然なく、私の記憶と感覚のレベルだと音が合っているか間違っているかを色彩で判断するので精一杯です(笑)

音楽以外で共感覚の使い道・・・というのは今のところないですが、でもメシアンの音楽(のみならず音楽全般)を感じるに当たって、メシアンの感じているような色彩の世界を少しでも感じられる(と思う)のが共感覚を持っている(らしい)ことで一番よかったと思うことです。

共感覚を持ったこと、メシアンの音楽にめぐりあえたことを一種の運命のようなものと思って、これからも演奏家とはいえないにしてもメシアン専門でやっていきたいと思います。


今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より第17番「沈黙のまなざし」



(今回はマダム・ロリオの演奏にしてみました♪)

タイトルの抽象的さは音楽の抽象的さにがっつり比例しております(笑)

「沈黙のまなざし」。在学最終年にて私の十八番であった・・・という話はさておいて、弾くのにもちょっと一癖、慣れていない人が聴くにはちょーっとハードルが高い一曲です。
なぜならメロディーらしいメロディーが皆無といっていいので。この曲はさきほど話しました「メシアンの色彩」なるものがフルに使われている・・・むしろ色彩しかありません。音ではなく100%色彩の「音楽」なので「沈黙」のまなざし、というわけです。

まずはこの曲を弾く話から。とりあえず色彩を感じるしかありません。それ以上の意味も、メロディーもありません。
さまざまな複雑なハーモニーを作り出す和音の中の音のバランスは誰も教えてくれません。自分の音を聞いて、できるだけの繊細さで透明で、同時に細かい色彩にあふれた音楽を作り出す・・・

聴くにもまた色彩を感じるしかありません。メロディーがないので何に意識を集中するとかなく、ぼんやりと聴くのが一番だと。
あんまりハードルをあげちゃあなあ、ともさすがに思うので一つ:うちの母は私がこれを練習しているのを聴いてラヴェルの曲かと思ったそうです(笑)

一番最後のセクションは私はよくダイヤモンドの輝きに例えます。透明な宝石から虹色の輝きが細かく発される、ちょうどそんな感じ。
そして私がこの曲を例えるもう一つのものが、宮沢賢治の色彩の描写です。
もしかしたら(保証はないですが)彼の作品の色彩の描写を見るとこの曲の趣旨が少しわかるかも・・・?
実は個人的に曲の様々な箇所にぴったりだと思う文のリストを作ってあるのですが(自分のインスピレーションのため)・・・長くなるので作品の名前のリストだけ書いておきます。
「やまなし」、「水仙月の四日」、「銀河鉄道の夜」、「十力の金剛石」・・・などでの色彩についての文が参考になる・・・かも?

メシアンのどんな音楽、そして20世紀の音楽、さらに音楽全般にもいえることですが、もしも初めて聴いたときにぴんとこなくともひょんなきっかけ(または気分)で何かがつながることもあるので簡単に嫌いにならないでほしいです。

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