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昨日更新したばっかり(そして昨日はかなり疲れた)ですがメンタルヘルスに関する話は考え始めてから時間が経つと書けなくなるので今日もつらつらと。
Twitterでもfacebookでも主にオーストラリアのメンタルヘルス団体をフォローしてて、関連団体の記事だけでなく一般の新聞のメンタルヘルス関連の記事も紹介されてるのをちょくちょく読んでます。やっぱり自分が探しにいかなくても向こうから流れてくるのはありがたい。
そんな中でThe Butterfly Foundationという摂食障害の患者さんを支援する団体からちょっと考えさせられる記事が流れてきたので今回書いてる次第です。
英語の記事ですがこちら。摂食障害と(特に写真主体の)ソーシャルメディアの影響の諸刃の剣についての記事。
結構知らないというか考えたことがないエリアだったのでものすごく興味深い記事でした。今現在形で色々思う事考えることあり。
自分は摂食障害を患ったことはなくて、患者さんと接点があったのは主に最初の入院のとき(もう14年も前になるんですね)。退院するときに交換する連絡先は住所とメールアドレスくらいの時代でした。
メンタルヘルスのケアやコミュニケーションにインターネットを活用という話は当時もあった気がしますがもちろん今あるみたいなものではなくて、そういうのが発達した頃には自分の精神的な状態もドクターとの連携含めたサポートのシステムもだいたい定まってきてインターネットを活用しようとは思ったことがなかった。
それから(未だに写真を撮る習慣が薄くて)Instragramとか写真主体のソーシャルメディアを使ったことがなく、そこにどんな世界が広がってるのかってのはなかなか想像がつかない。
仮に利用してたとしてもTwitterと同じくgeneralというかいろんなもので構成されてる広い世界では縁がないコーナーはとことん縁がなさそうですし。
例えばこの記事ではInstagramやTumblrに存在している摂食障害を煽るようなハッシュタグについて言及があります。こういう人に危険を及ぼすハッシュタグはサイトによってモニタリングされて検索できないようにされたりなど対策がとられているそうですが、ネットの諸々共通で縁の無い人はそういう画像に出会うことはほとんどない中探そうとする人には見つけられるもんなんですよね。
ただこういう比較的オープンで広いソーシャルメディアはネガティブなものが巣くうだけでなくポジティブなものも生まれ広がる場所になっている、と記事には書いてあります。
例えば摂食障害と闘ってる患者さんが自分が食べられるようになった食事を写真にとったり健康な体型を取り戻しつつある姿を写真にとったり(これについては難しい点があって後述)するハッシュタグもあり、自分や他の患者さんの闘病の助けになったりしているとか。
この記事を読んで一番強く思ったのは写真の力ってすごいなー、ということ。
A picture is worth a thousand wordsといいますけど例えばtwitterやfacebookで患者さんやその家族の体験談を読んだりするのとこういうメディアで写真で見るのとは大違い、というか一緒くたにはできないですね。そのメリットもデメリットも別に考えていかなくちゃいけない。
そして精神疾患の中でも摂食障害に関して特に写真の力が強いのもこの記事で知りました。
ソーシャルメディア以外でもテレビや雑誌などのモデルの姿が過度なダイエットを推進していたり、ボディイメージや摂食障害における理想の姿・比較対象として写真や映像の影響の大きさは聞いているのですが、それがソーシャルメディアでより身近でリアルな影響になる(そして苦しみも共有している)危険って改めて突きつけられるとすごいですね。
鬱とかに関しても自傷の写真を共有したりなんてことは聞いていますが摂食障害の場合は写真・映像とその共有にさらに複雑な危険があるみたいです。
すごく興味深いのが記事の後半にあった「患者さんが回復途中の姿を共有することに関するジレンマ」関連の話。前述比較的オープンで広いソーシャルメディアにはいろんな状況の人がいて、摂食障害から這い上がりつつある人の写真(=まだ平均よりだいぶ痩せている)を摂食障害に陥りつつある人がネガティブな目標としてしまったり、ということも有り得るそうです。こういう面でもソーシャルメディアは毒にも薬にもなりうる諸刃の剣。
そして自分の外見にとらわれないように闘病しているのにその過程を写真にとってアップする行為は外見にフォーカスしてその目標と矛盾しているのではないか、との悩みも書かれていました。
若い人は新しいテクノロジーを利用しながら新しい価値と活用法を開拓していきますが、若い患者さんは闘病にもそういう場で方法を色々試行錯誤してるってのもまた面白いです。
そういう広い環境の中での患者さん同士のコミュニケーション全般大変なんですよね。例えば病院のティーンエイジャーセクションだったら割と少人数でルールがあって看護師さんなどが監督してて病気の話をシェアしたり、とある程度管理された中でコミュニケーションができるのですがソーシャルメディアなどオープンな場だと話が違ってくる。色んな文化背景の人がいますし、関係者以外との境界もかなりあいまいで、悪意を持った人間もアクセスできるし、専門家の監督もなく。患者さんだけの集まりだとお互い病気の影響があるから難しいですしね。
あとはこの記事に関して思ったのは専門家の人達も大変だなーと。新しいテクノロジーや「場」に適応するのも利用するのも若い人の方がずっと早いしうまいし、色んな場や方法が出来て発展するのをちゃんと知って患者さんや闘病に関してソーシャルメディアなどの状況(危険も有用性も)を把握・予測してなくちゃいけないってことになりますもの。どうしても慎重な姿勢にならざるを得なさそうだけどちゃんと見て知ってる専門家の目があることでそういう玉石混淆なソーシャルメディアの利用も少しは良い方向にいく・・・といいなあ。
最初にも書きましたがメンタルヘルスとソーシャルメディア関連に関しては考えたことない分野でしたし、摂食障害のそれが自分に身近なものとは大分違ってて読んでて興味深い記事でした。
そしてずっと考えながら書いてて今日も疲れた(汗)でも今日の一曲はやります。
今日の一曲: トーマス・アデス Darknesse Visible
今年いつだったからかずっと弾いてるこの曲。まだ弾いています。最初(弾く前)思ってたよりもずっと自分に合う曲で、あと思ってたほど難しくなくて・・・と言いたいところなのですが最近新しい壁にぶち当たりました。後ほど。
Darknesse Visibleはピアノのための曲ですが、ジョン・ダウランドのリュートのための歌曲「In Darknesse Let Mee Dwell」という曲が元になってます。もちろんピアノで弾くときは詩はつきませんがこれが素晴らしく暗くて大変好きです。英語ならこちらで読めます。ちなみにStingもカバーしてるらしい。
その歌曲を編曲したのか、というとちょっと違って。作曲家曰く元の歌曲を「爆発」させたそうです。元の曲のドレミファソラシドをそのままに、ピアノの様々なオクターブにばらけさせた・・・という説明でどれくらい分かってもらえるだろうか(汗)
とにかく元の曲に一音も足すことなく(楽譜を見ると意外かもしれませんが実はいくつか抜かれてる)音の位置を変えて作り替えた=爆発のあとに残ったのがこの曲です。
そして楽譜としては珍しくカラーで印刷してあるのは元の曲の音の流れを示したもので音楽的な意味合いはないそう。
そういう経緯でこの曲は初聞きでは結構わかりにくい曲になっています。ですが!最後までたどり着くとだんだん元の曲に近い部分がでてくるので諦めないで欲しいです。最後のほぼオリジナルな部分から逆方向に曲が分かっていく感じ。(同じイギリスの曲で同じダウランドを題材としているブリテンの「ラクリメ」もそうだったなー)
あとわかりにくい感じはあるとはいえ元が昔の音楽なので不協和音ではないんですよね。なので深く考えなることなく音のかけらとその間の無限の闇を感じたいです。
この曲はちょこちょこ普段ピアノでやらないことするのが難しいです。音の長い連打が最初の壁だったのですが、最近ペダルがかなり難しいことが判明。響きを調整するためにペダルを(連打みたいに)細かく踏み換えてその表現がまた細かい。演奏で聞くと分からないですがすっごい大変なので大変だってここで書いておく。今日も変な筋肉痛になりました。
多分次の壁が音楽全体の作り方になるんだろうなあ・・・どんな音楽にしたいかは分かってるんだけど弾き始めると全部ふっとぶので(汗)
ぐだぐだ書いてしまいましたが付き合えば付き合うほど(そして元の歌曲も合わせて味わうと)なんとなく分かってきて闇にどんどんはまりこむ面白い曲です。
私もまだまだもっとこの闇にはまりたいと思っているので当分弾き続けます(笑)いつか自分の演奏で届けたい。
そしてリンクした録音には他にもいくつかアデスのピアノ曲が収録されてますがTraced Overheadも好きです。すっごい難しそうだけどこれも弾けるようになりたいです。
Twitterでもfacebookでも主にオーストラリアのメンタルヘルス団体をフォローしてて、関連団体の記事だけでなく一般の新聞のメンタルヘルス関連の記事も紹介されてるのをちょくちょく読んでます。やっぱり自分が探しにいかなくても向こうから流れてくるのはありがたい。
そんな中でThe Butterfly Foundationという摂食障害の患者さんを支援する団体からちょっと考えさせられる記事が流れてきたので今回書いてる次第です。
英語の記事ですがこちら。摂食障害と(特に写真主体の)ソーシャルメディアの影響の諸刃の剣についての記事。
結構知らないというか考えたことがないエリアだったのでものすごく興味深い記事でした。今現在形で色々思う事考えることあり。
自分は摂食障害を患ったことはなくて、患者さんと接点があったのは主に最初の入院のとき(もう14年も前になるんですね)。退院するときに交換する連絡先は住所とメールアドレスくらいの時代でした。
メンタルヘルスのケアやコミュニケーションにインターネットを活用という話は当時もあった気がしますがもちろん今あるみたいなものではなくて、そういうのが発達した頃には自分の精神的な状態もドクターとの連携含めたサポートのシステムもだいたい定まってきてインターネットを活用しようとは思ったことがなかった。
それから(未だに写真を撮る習慣が薄くて)Instragramとか写真主体のソーシャルメディアを使ったことがなく、そこにどんな世界が広がってるのかってのはなかなか想像がつかない。
仮に利用してたとしてもTwitterと同じくgeneralというかいろんなもので構成されてる広い世界では縁がないコーナーはとことん縁がなさそうですし。
例えばこの記事ではInstagramやTumblrに存在している摂食障害を煽るようなハッシュタグについて言及があります。こういう人に危険を及ぼすハッシュタグはサイトによってモニタリングされて検索できないようにされたりなど対策がとられているそうですが、ネットの諸々共通で縁の無い人はそういう画像に出会うことはほとんどない中探そうとする人には見つけられるもんなんですよね。
ただこういう比較的オープンで広いソーシャルメディアはネガティブなものが巣くうだけでなくポジティブなものも生まれ広がる場所になっている、と記事には書いてあります。
例えば摂食障害と闘ってる患者さんが自分が食べられるようになった食事を写真にとったり健康な体型を取り戻しつつある姿を写真にとったり(これについては難しい点があって後述)するハッシュタグもあり、自分や他の患者さんの闘病の助けになったりしているとか。
この記事を読んで一番強く思ったのは写真の力ってすごいなー、ということ。
A picture is worth a thousand wordsといいますけど例えばtwitterやfacebookで患者さんやその家族の体験談を読んだりするのとこういうメディアで写真で見るのとは大違い、というか一緒くたにはできないですね。そのメリットもデメリットも別に考えていかなくちゃいけない。
そして精神疾患の中でも摂食障害に関して特に写真の力が強いのもこの記事で知りました。
ソーシャルメディア以外でもテレビや雑誌などのモデルの姿が過度なダイエットを推進していたり、ボディイメージや摂食障害における理想の姿・比較対象として写真や映像の影響の大きさは聞いているのですが、それがソーシャルメディアでより身近でリアルな影響になる(そして苦しみも共有している)危険って改めて突きつけられるとすごいですね。
鬱とかに関しても自傷の写真を共有したりなんてことは聞いていますが摂食障害の場合は写真・映像とその共有にさらに複雑な危険があるみたいです。
すごく興味深いのが記事の後半にあった「患者さんが回復途中の姿を共有することに関するジレンマ」関連の話。前述比較的オープンで広いソーシャルメディアにはいろんな状況の人がいて、摂食障害から這い上がりつつある人の写真(=まだ平均よりだいぶ痩せている)を摂食障害に陥りつつある人がネガティブな目標としてしまったり、ということも有り得るそうです。こういう面でもソーシャルメディアは毒にも薬にもなりうる諸刃の剣。
そして自分の外見にとらわれないように闘病しているのにその過程を写真にとってアップする行為は外見にフォーカスしてその目標と矛盾しているのではないか、との悩みも書かれていました。
若い人は新しいテクノロジーを利用しながら新しい価値と活用法を開拓していきますが、若い患者さんは闘病にもそういう場で方法を色々試行錯誤してるってのもまた面白いです。
そういう広い環境の中での患者さん同士のコミュニケーション全般大変なんですよね。例えば病院のティーンエイジャーセクションだったら割と少人数でルールがあって看護師さんなどが監督してて病気の話をシェアしたり、とある程度管理された中でコミュニケーションができるのですがソーシャルメディアなどオープンな場だと話が違ってくる。色んな文化背景の人がいますし、関係者以外との境界もかなりあいまいで、悪意を持った人間もアクセスできるし、専門家の監督もなく。患者さんだけの集まりだとお互い病気の影響があるから難しいですしね。
あとはこの記事に関して思ったのは専門家の人達も大変だなーと。新しいテクノロジーや「場」に適応するのも利用するのも若い人の方がずっと早いしうまいし、色んな場や方法が出来て発展するのをちゃんと知って患者さんや闘病に関してソーシャルメディアなどの状況(危険も有用性も)を把握・予測してなくちゃいけないってことになりますもの。どうしても慎重な姿勢にならざるを得なさそうだけどちゃんと見て知ってる専門家の目があることでそういう玉石混淆なソーシャルメディアの利用も少しは良い方向にいく・・・といいなあ。
最初にも書きましたがメンタルヘルスとソーシャルメディア関連に関しては考えたことない分野でしたし、摂食障害のそれが自分に身近なものとは大分違ってて読んでて興味深い記事でした。
そしてずっと考えながら書いてて今日も疲れた(汗)でも今日の一曲はやります。
今日の一曲: トーマス・アデス Darknesse Visible
今年いつだったからかずっと弾いてるこの曲。まだ弾いています。最初(弾く前)思ってたよりもずっと自分に合う曲で、あと思ってたほど難しくなくて・・・と言いたいところなのですが最近新しい壁にぶち当たりました。後ほど。
Darknesse Visibleはピアノのための曲ですが、ジョン・ダウランドのリュートのための歌曲「In Darknesse Let Mee Dwell」という曲が元になってます。もちろんピアノで弾くときは詩はつきませんがこれが素晴らしく暗くて大変好きです。英語ならこちらで読めます。ちなみにStingもカバーしてるらしい。
その歌曲を編曲したのか、というとちょっと違って。作曲家曰く元の歌曲を「爆発」させたそうです。元の曲のドレミファソラシドをそのままに、ピアノの様々なオクターブにばらけさせた・・・という説明でどれくらい分かってもらえるだろうか(汗)
とにかく元の曲に一音も足すことなく(楽譜を見ると意外かもしれませんが実はいくつか抜かれてる)音の位置を変えて作り替えた=爆発のあとに残ったのがこの曲です。
そして楽譜としては珍しくカラーで印刷してあるのは元の曲の音の流れを示したもので音楽的な意味合いはないそう。
そういう経緯でこの曲は初聞きでは結構わかりにくい曲になっています。ですが!最後までたどり着くとだんだん元の曲に近い部分がでてくるので諦めないで欲しいです。最後のほぼオリジナルな部分から逆方向に曲が分かっていく感じ。(同じイギリスの曲で同じダウランドを題材としているブリテンの「ラクリメ」もそうだったなー)
あとわかりにくい感じはあるとはいえ元が昔の音楽なので不協和音ではないんですよね。なので深く考えなることなく音のかけらとその間の無限の闇を感じたいです。
この曲はちょこちょこ普段ピアノでやらないことするのが難しいです。音の長い連打が最初の壁だったのですが、最近ペダルがかなり難しいことが判明。響きを調整するためにペダルを(連打みたいに)細かく踏み換えてその表現がまた細かい。演奏で聞くと分からないですがすっごい大変なので大変だってここで書いておく。今日も変な筋肉痛になりました。
多分次の壁が音楽全体の作り方になるんだろうなあ・・・どんな音楽にしたいかは分かってるんだけど弾き始めると全部ふっとぶので(汗)
ぐだぐだ書いてしまいましたが付き合えば付き合うほど(そして元の歌曲も合わせて味わうと)なんとなく分かってきて闇にどんどんはまりこむ面白い曲です。
私もまだまだもっとこの闇にはまりたいと思っているので当分弾き続けます(笑)いつか自分の演奏で届けたい。
そしてリンクした録音には他にもいくつかアデスのピアノ曲が収録されてますがTraced Overheadも好きです。すっごい難しそうだけどこれも弾けるようになりたいです。
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