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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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なんか混沌としてますがピアノも弾いてます。
前回のエントリーに拍手ありがとうございます。

ここしばらく夜中に落ち着かなくなったり(カフェインの影響も受けやすい)、頭がやたらと疲れたり。出かけて歩く分にはあんまり体は疲れないのですが、ピアノの練習での頭の疲労はものすごいです。色々疲れを感じやすい要因は季節など色々あります今の練習の段階だとインプットする情報が多いので頭脳がかなり重労働。

とはいえ日本に行く前からの引き継ぎの曲もいくつか。
アデスのDarknesse Visibleはもうちょっとだけ足掻いてみるかーと思いながら足掻いててさして良くならないのが今の悩み。最初に楽譜と向き合ったときから数々の壁がありましたがこの「曲全体とその空間時間をどう作るか」というのは最後の壁なはず。
(それにしても美術や文章なんかだとマクロ→ミクロと形作ることができてもミクロを詰めてからマクロを変えていくのは難しいはずですが、音楽ではそれができるってのは面白いですね)

スクリャービンの「黒ミサ」ソナタも一進一退。技巧的にものすごく難しいことはないけれどちょっとトリッキーなのが手に馴染みにくい。
音楽言語とかスタイルとかは以前弾いた同時期の曲「炎に向かって」で培ったノウハウを流用できる部分も多いですが、「黒ミサ」ソナタは音楽的に面白く聴かせるのが難しい。楽譜に書いてあるとおり弾くだけじゃ平面的で色に乏しくなってしまうんですよねー・・・
自分なりに面白い黒ミサが弾けたらなあ、とは思ってるんですけどまだそこまで手が回らない。

スクリャービンの音楽もトリッキーで独特のルールで成り立ってる世界ですが、なんとかつかめればある意味ロジックは通るようなところがあります。それに対してシマノフスキのメトープ(今は「セイレーンの島」を弾いてます)はルールがあるようでない世界。
それこそ印象派の絵みたいに様々な色彩が細かく交わってて、弾くにあたって「描く」ような感覚と考え方が必要になるようです。
弾くべき音を欠けることなく、美しく弾くこと、聴かせることの厳しさと大切さがひしひし。

新しく弾き始めたラヴェルの「夜のガスパール」の「ウンディーネ」はシマノフスキで必要とされる細部まで描き込む側面とメシアンやスクリャービンにもつながる結晶的な規則と構成の美が揃ってます。とにかくロジカルではあるので頭でこなれやすい、ので思ったほどは難しく感じない。今の段階では。
ただ♯7つは読みにくい!今でもしょっちゅう読み間違えてる音が見つかります。

実は今のレパートリーは♯が多かったり無調でも♯寄りの曲がかなり多い。(Darknesse Visibleは7つ♭ですが)
今回またバッハとショスタコの前奏曲とフーガをセットで弾いてみています。バッハは平均律第2巻から第14番嬰ヘ短調(♯3つ)、ショスタコーヴィチは前奏曲とフーガ第13番嬰ヘ長調(♯6つ)。バッハは前奏曲がちょっとロマン派風の風味があってフーガがトリプルフーガ(主題が3つある)、ショスタコは割と素直な前奏曲にちょっと冒頭はバッハ風味もする5声のフーガ。
色々イレギュラーで曲者な2曲ですが、美しく(&この組み合わせで)弾ければいいなと思っています。

そしてもちろんメシアンも♯寄り。
「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」からは以前紹介しました第20番「愛の教会のまなざし」に加えて今日第6番「御言葉によってすべては成されたり」に初めて手をつけてみました。
第20番は(メシアンだいたいそうですが)ちゃんと楽譜を見てパターンやロジックが見えてくると大分楽になってくる。この曲は特に繰り返しが多いので当初思ったより短い時間で習得できそう。

↑で書いたことは第6番にも確かに言えることは言えるんですがこちらはさらに長く技巧的にも難しく、曲の組み立てが段違いに複雑で。やっぱこの曲が20のまなざしのラスボスだと思います。
立ち向かうだけでかなりHP(体力)&MP(頭脳)を消費する。
不思議と不可能だとは思わないんですよね。やっぱりパターンとかが見えてくると「あ、なるほど」ってなりますし。その最初のステップを踏んでおくだけでもボスがちょっとだけ小さく見えてくる。
同時にこの曲は今始めておいてしっかり弾き込んでおきたいなと改めて思いました。なるべく早くやるに超したことはない。

ただメシアンは今まだ「鳥のカタログ」から「カオグロサバクヒタキ」にも挑戦中ですし。
これも今まで弾いたことある鳥カタよりも長くてなかなか全貌を掴めないのが難しい。長いし曲の性格みたいなものもあって多分当分演奏することはない曲だとは思いますがこれもなんとか手の内に治めておきたい。

とにかく以前も書いてるように20のまなざしは揃えて弾きたいのでそれが一番優先。
プラス今週末が終わったらZelmanの惑星のパートと金平糖の精も12月頭までしっかり練習しないといけない。
あとこの夏は南米(アルゼンチン)の音楽も弾いてみたいですし。楽譜まだ届かないかな。
要するにやりたいことがちっとも整頓されてなくてレパートリーぐっちゃぐちゃなうです。

近いうちに色々なんとかするつもりではいますがとりあえずこのぐっちゃぐちゃなレパートリーから何を今日の一曲で紹介するか・・・


今日の一曲: ドミトリ・ショスタコーヴィチ 前奏曲とフーガ第13番 嬰ヘ長調



これにしました。
ここしばらくバッハとショスタコーヴィチを組み合わせて弾いていて思ったのはそもそも「ショスタコーヴィチの前奏曲とフーガ」というジャンルを見直さないといけないなあ、ということで。
ショスタコの前奏曲とフーガにバッハの平均律と同じものを求めてはいけないし、同時にショスタコーヴィチの他の作品と同じものを求めてはいけない。
ずっとずっとショスタコのオケ作品が好きで室内楽作品が好きで、ああいう音楽が弾きたいとは思うんですが、でもそこを追いかけるのをやめたとき前奏曲とフーガに新しい魅力を見つけることができたような気がします。

例えばショスタコーヴィチのフーガはバッハのフーガみたいに完璧に書かれてはいないけれど、でもどれもが独特の性質を持っていて、しかもそれら全部フーガという形式だからこそ成り立つ存在で。フーガに新しい役割と意味を持たせているというか。キャラクターを作るフーガ。
さらに前奏曲とフーガのセットそれぞれがバッハとはまた違う曲のキャラクターや調のイメージを表現している。

そんな中から第13番嬰ヘ長調。♯が苦手な私、特に嬰ヘ長調という調の性質がそんなに好きではないのですがこの曲はなんだか弾きたくなりました。一つの理由としてバッハの平均律第2巻の第14番を聴いて「これとこれと組み合わせてみたら面白いな-」というのはありました。でもこの曲単品でもなんか心の隙間に入ってきたような。

ショスタコはひねくれたり暗かったりな音楽がよく知られてますが前奏曲はそんなショスタコの典型的なイメージとはほど遠い。そよ風のような自由さを持ったメロディーに田園的な雰囲気。
ただベートーヴェンやベルリオーズの田園的な曲のように水面下の暗さ、不穏さがあるのもまた印象的。

フーガはなんと5声のフーガです。普通3声、4声が多いですがピアノなら5声もたまにあります。
ただ手一つで2声とか3声、この曲の場合は4声まで担当することもあるのであんまり細々したことはできません。主題も数音で成り立つシンプルなもの。

こういうフーガはバッハも書いていて(平均律の第1巻第4番が似てるかな)、主題の感じとかものすごくバッハっぽいところがあるのですが、だんだん曲の中に進んでいくと調が転じるうちになんかものすごい♭の湿地に迷い込んでしまう、でもそれでも淡々と音楽が進んでいってよく分からないけど再現部にたどり着くのが不思議。

前奏曲もフーガも嬰ヘ長調という調が内包する暖かい光に照らされ、穏やかだけどゆるぎない満足さとともにそこに存在している、みたいなイメージがあり。バッハ(平均律第14番)は対照的に少し暗くて迷うようなイメージがあり。だから組み合わせたくなったのかも。

リンクしたのはニコラーエヴァの録音。比較的堅い音の曲はアシュケナージやキース・ジャレットの録音を聴く事が多いのですが柔らかい音の曲はニコラーエヴァの演奏が好きです。もちろんこの曲もぴったりの演奏。


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