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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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日本語って難しい
前回のエントリーに拍手どうもです~
そしてちいとばかり間があいてしまいました・・・新しいおもちゃ、もとい遊び、もとい表現形態を見つけてしまったばかりに忙しくなっていました、というか現在進行形。
(あと検索ワードに「ここで見つかるか!?」というようなキーワードがちらほら見られます。お探しの情報が見つからなかったらすみません。あと聖飢魔II関連キーワードが引っかかり始めましてなんだかこちらもすみません・・・)

今日はいいこともありましたがちょっとばかり低めでしたね、全体的に。
気分がのらないというか、集中力の切れやすさもそうですし、なによりも「何を聴いても気分がぱっとしない、特に何も聴きたいわけじゃない」というのに現れました。

そんな中仕事は比較的苦手な英和翻訳。日本語を書くのはやっぱり苦手なのですが今回の案件は良い薬になってます。分量も巨大ではないですし、内容的にも理解しやすいものですし。
内容は詳しくは言えないですが、今やってる案件はちょっと特殊なような期がします。「ですます調」と「である調」が混在してる(と思う)、というのとあと内容も一部は専門用語を使って他の一部は一般に分かるような言語を使って、というので。
日本語でその区別を付けるのってなかなか難しいんですよね。英語で「一般に分かる様な用語」でないものははっきりそう見えるんですが、日本語だと漢字の字面でなんとなくわかっちゃうから「この言葉で分かってもらえるのかどうか」が曖昧だったり。

あとは例えば病名を「一般に分かる様な言葉で」となると単語でなくてここの部分がこうこうなる病気、とかいう「説明文」になるんですよね。これはもう半分翻訳じゃなくてどっちかというと自分でその専門用語をなんとか一般の人に説明している感覚で。
で、たまに英語における一般に分かる様な単語とか病気とか症状の「呼び名」って日本語に直すと正式な病名になっちゃうことがあって、そうすると元が短いのを考慮してあんまり長くならないようにちゃちゃっと説明するしかなかったり。

なかなかこの「説明」というのが難しい。一応大学卒業した後まで医学を勉強したことはない(厳密に言えば今でもそんなに「勉強した」とか言えるレベルではない)のだけど、病名とか専門用語は理解できるのに、それを医学のバックグラウンドが全くない人に専門用語などを説明する、というのが大変困難に思うのです。英語だったらどうなるのか、まだわからないのですが日本語ではとにかく難しい。
それはまあ、見ようによっちゃあこの仕事を2年前?位に始めたころから知識は大分増えた、ということではあるのですが・・・

「説明」が難しいのは例えばコメントチェックで「ここは現在形ではないでしょうか」とかコメントがあったときに「どうして英語ではここで過去形を使うのか」というのの説明が困難を通り越してほぼ不可能に近いことだったり、このブログ(本文・今日の一曲)で音楽のことを説明するときにいかに音楽理論の専門的なあれを使わずに説明するか(といっても音楽理論をそんなに駆使する方ではないはずです、私はもともと)、そういうことでも日常で(主に後者)いろいろ悩んだり考えたりしているわけです。

でも例えば臨床試験の「同意説明文書」とか薬の「添付文書」とか、一般に(後者は種類によって一般に限らずですが)「説明する書類」を翻訳するのは好きです。自分があたかも読み手に直接説明しているかのような気持ちになるんですよね。自分が最初から文章を起こしているわけではないけれど、言葉はちゃんとわかりやすいように自分で選んでますし、(いつもそうじゃないわけじゃないですが)心がこもるんですよね、文章に。いつもにまして「伝えたい!」と思います。

なんとなく自分の自分に対する印象として割とスノッブというか「象牙の塔にこもる」じゃないですが、特に音楽だったりメンタルヘルスの話に関しては割と専門的な方向に目が向いてて、その中でも特に音楽に関しては玄人相手な考え方だったり話し方をしたり、分かりやすく説明することをかなりめんどくさがる方だと思うのですが・・・
こうやって考えてみると案外自分はそうでもないのかな、もっと広く知ってもらいたい、自分の言葉(または他の表現形態)で分かってもらいたい、そのために努力したいと思ってるんだなあ、と改めて感じます。同時にそれを忘れないでいようと思います。仕事にも音楽にも書き物にも。
(そこで気になるのがメンタルヘルス方面ですね。専門的な方向を向いて研究に興味があるのか、一般に向いて臨床関連をやりたいのか。うーん。)

さて、話は変わりますがジョージ・クラムの「Apparition」の歌詞となっている「When Lilacs Last in the Dooryard Bloom'd」を含むWalt Whitmanの詩集を買ってきました!
前々からちょこちょこWhitmanの詩はいろんなところで見てきたのですがこれでゆっくり楽しめます!(未だにやっぱり紙の本派ですねーやっぱり。安心感がある、というか読みやすい、というか)
さーていつ読む時間ができるかな(汗)読みたい本だけじゃなくて論文も結構溜まってるのでいつか消化できたら。消化と言えばアウトプットもどうなるやら・・・


今日の一曲: Spice Girls 「Naked」



前回もクラシック音楽以外ですが、今日もまたいつもから、そして前回から方向性をがらっと変えて。

Spice Girlsは以前も書きましたが思春期早期(笑)に好きだったグループで、アルバムはこの曲が収録された「Spice」と次の「Spiceworld」を所有、結局Goodbyeのシングルが出るころ(=Geriの脱退時期)くらいまではまってましたね。
で、ここ数年で古いCDを見つけてなんとなくipodに入れて改めてなつかつしさとともに再評価、というか。

もちろん、というかライブのビデオだったり映画もビデオで持ってたこともあるのですが、この「Naked」という曲はライブなど(PVも?)で5人が後ろ向きの背がくびれた椅子にまたがり踊りながら歌い、あたかもヌードであるかのように見える、という演出で有名になったというか話題になった歌です。
10代のころからそういったセクシーなものとか性的な演出他いろんなものには特に抵抗はなく、「なるほどー」
的なリアクションで迎え、まあ芸術的なもので美しいと思えば素直に好きと言いますし。前述演出は好きだと思いましたよ、当時。

でもそのいわゆるショッキングさで音楽的な価値が若干見くびられてる感じはちょっとあるかなーと最近思います。
ジャズコードを駆使して&歌い手の語りによって作られる、曲を通じて流れる暗い中に古いスポットライトが一つともってるような、どこかふしぎで張り詰めた雰囲気だったり。
で、この雰囲気もやっぱり歌い手の声がちゃんとしてないと成り立たないわけなんですよね。

「Naked」というのはなにも身体的な裸に限らず、歌詞にもあるように迷っている中で自分の心をさらけ出す(ただし歌詞にあるように「誰にでもではない」!)、自分の本当の姿を見て欲しいという願望などということもあり、それによる正直な「表現」、ということもあり。
この歌で歌われている「裸」はだから裸体彫刻だったり、美の女神アフロディーテが生まれ出でた姿としての裸だったり、なにかとっても堂々とした美だったり信念があって。
もうちょっと穿ってみるとそれは自分に対する自信(例えばボディイメージであったり、アイデンティティであったり)、または女性としての自由や誇りであったり。
基本Spice Girlsの歌はどれも女の子、というか女性の味方にがっつり立つようなスタンスの歌を中心としていて、Nakedもまたそれを強く反映していると思います。(私もどっちかというとフェミ寄りですしね)

曲の途中でのSporty Spice(=Mel C)のシャウトの部分が特にいいですよね。あたかも楽器のソロのような自由さというか、ハーモニーからの解放(「Any old fool」のとこ、特に!)だったり、それがかなり気持ちいいです。

こうやっていろいろ大人になって(?)改めて考えて気づいてみて思うのは、スキャンダラスな部分ばかり見ずに改めて聴いてみて欲しいと心から思う曲です。
(歌詞はこちら

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