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前回のエントリーに拍手どうもです!
最近ちょっとだんだん練習レパートリー改編期に入りつつあり。
そのなかでもプーランクの即興曲第3番はものすごく壁にぶち当たった感じでものすごく悔しい感じでギブアップ。
このころころ変わる気質に頭がついてけず集中力が散漫になってしまうのはもっとプーランクを弾き重ねないと慣れないものなのか・・・
嫌いになった訳じゃないのでまたの機会に再チャレンジしたいです。
そしてその他諸々ある中、ふと気づいてみれば去年の春頃?に始めたプロコフィエフのピアノソナタ第2番も最終楽章。1番好きな楽章ですがかなりトリッキーなタランテラ。
目標としては毒いっぱいパワフルに、毒を楽しんで弾けるようになれれば良いかな。独特のユーモアが鋭く突き刺さるのでちょろっとどこかで弾けたらいいな、とか思ってるんですが。
でもプロコフィエフの音楽って私にとっては習得するのも弾くのも聴くのも好きながら人前で弾くとなるとどうも気が引けてしまう感じがあって。
不協和音的なところもありながら曲の組み立て、音の連なりはものすごくロジカルなので問題は暗譜ではないんですよね。
きっと一番キーとなってるのは「自分はプロコフィエフを弾くときに余裕を感じたことがほとんどない」ということかと。
ピアノにおいての技巧のレベル(プロコフィエフの技巧はまたちょっと特殊なとこありますが)もそうですし、ちょっと体力に関するところもあったりするのですが、それだけでなく弾いてて色々余裕を感じられない。
楽しいんだけどどこか心地良さを感じることができない。(そもそも心地良さというのとはちょっと違うのかも)
練習してるのと演奏してるのでは緊張なども相まって身体的に、肉体的に余裕がいつもよりなくなるものなのですが、プロコフィエフの音楽はそこのところが厳しくなりやすいのかもしれませんね。
プロコフィエフは同じ時代・国で生きた、そしてそれにより似たようなテイストを持った音楽を書いたショスタコーヴィチを比較対象にされることが多いですね。なので今回ここでもショスタコと比べるようにしてちょっと話ます。
どちらもソヴィエトの偉大な作曲家で、交響曲などの大ジャンルからもっと小規模の曲までいろいろな音楽を書いています。
この2人の作曲家の違いを説明すると、「ショスタコはうつに似ていて、プロコフィエフは強迫性障害に似ている」というところですかね。つまりショスタコは(ロジカルな組み立てはあるものの)ものすごく感情面の表れが強くて、プロコフィエフは強迫行動を思わせるような執拗さ、そしてものすごい完璧さ、理論の裏付けなどが特徴的。別の言い方だと「ショスタコーヴィチの音楽はこちらをまっすぐ見てくるのが怖いけれど、プロコフィエフはこっちを見もせずにのめりこんでるのが怖い」。
↑は全部あくまでも私の印象・考え・解釈ですがね。
ピアノにおいての立ち位置を考えるとショスタコよりはプロコフィエフの方がよく弾かれてますし、メジャーな曲を書いている印象はありますね。
9つのソナタだったり5つの協奏曲、あとは練習曲など小さな曲まで。ショスタコは24の前奏曲とフーガがあるけどソナタは2つだけだったり、そんなにがっつりピアノ!という感じではないというか。
私はまだ日本にいてピアノを習ってた頃使ってた曲の教則本、というか曲集がソヴィエト音楽中心で、だからショスタコとかプロコフィエフの音楽もちょこちょこ弾いてて。
プロコフィエフの「タランテラ」はそんな中でも印象に残っています。当時からタランテラ好き・ニ短調好きだったので(笑)
あと我が家にPerformaなんとか、というマックのパソコンが来たときについてきた「ピーターと狼」のインタラクティブプログラムでも親しんでましたね。ただピーターと狼がプロコフィエフの作曲だとは当時あんまり思ってなかったかも。
でもそこからプロコフィエフとの接点ってのは結構飛び飛びだったりするような・・・(少なくともショスタコだともっと持続的に愛して、持続的に濃くつきあってる感がありますね)
こっちに来てメル響のコンサートに行ってプロコフィエフの交響曲第3番「炎の天使」を聴いたのは強烈に印象に残ってます。ストーリーのおもしろさ、作曲法とエフェクトの興味深さ、何もかもががつんとくる曲で。
ちなみにあらすじはこちら。このオペラが元となった交響曲で、特に以前紹介した第3楽章のスケルツォなどリアルを超越したようなビビッドである意味えぐい表現に満ちています。
ユースオケだとプロコフィエフは「キージェ中尉」とピアノ協奏曲第2番、そして「ロミオとジュリエット」をやったのみかな。(もっと最近だともちょっとがんがんいっぱい弾いてたのかもしれないけど・・・)
ピアノ協奏曲第2番はこのブログで何回か話に出しているように自分にとってものすごく特別な曲。
本当は交響曲とかも弾きたかったんだけどなあ。第5番は生で聴いてますが。
で、ピアノになると大学以降はop.12の小品のうち5つ、悪魔的暗示、そして今やっているピアノソナタ第2番。
少なさはプロコフィエフが割と大きめの手のために曲を書くこともちょこちょこある、ということも関係していますが・・・それでもなんだか「あれ、これだけ?」な感じですねえ。
悪魔的暗示は大学の最終リサイタル試験で弾いてます。小品もちょっと弾いてるのかな。
にしても何となく経験不足なのかもしれません、演奏に関しては。
先ほど書きましたようにプロコフィエフはピアノのために素晴らしいレパートリーをどんと残してて。
例えばピアノソナタの第6,7,8番は第二次世界大戦の頃に書かれたため「戦争ソナタ」と呼ばれています。大学でも6,7あたり弾いてる人何人かいましたね。
私は戦争ソナタはもうちょっとピアノの技量を磨いて、あと歳を重ねて、30過ぎてからかなあ(笑)
今第2番やってるのがものすごく性に合っててもっと磨いて自分の物にしてみたいですし、同時に第3番(単一楽章)もチャレンジしてみたい。
第6,7番あたりも好きだけれど、まずそこを堅めてもっと好きになってからかな。
そしてできればピアノソナタ、ピアノ協奏曲、できれば小品もリヒテルの演奏で録音をそろえたいですね。
彼の演奏のパワフルさだったり、がっつりピアニズム(がっつり=王道といった意味であり「がっつりしたスタイル」という意味でもあり)、そしてソヴィエトなスタイルとプロコフィエフのトリッキーなテクニックをしっかりものにしてしまう技巧はやっぱりすごい。プロコフィエフはいつだって彼の演奏で聴きたい。
私は女性で体も小さくてソヴィエトに生きることはなかったけれどリヒテルの演奏から学んで身につけたいものいっぱいで。
ショスタコについて書いたとき話しましたが私はソヴィエトとその歴史にものすごくい思い入れがあって、ピアノを弾くにしてもソヴィエトらしくソヴィエト音楽を弾きたい、再現しながら自分の思いの丈を表現したい、と思っています。
そのためにはやっぱりピアノソナタ第2番、悪魔的暗示、それから小品いくつかをしっかり基盤として固めなくちゃいけないかな。パワーと技巧とソヴィエトテイストと、そしてもう少し余裕。
できれば将来的にソナタ第2番は人前でやったほうがいいし、やりたいですし、やれるようになりたい。
またショスタコと比べちゃってあれですが、これまでショスタコと積み重ねたものに負けないくらいの心持ちでプロコフィエフの音楽ともつきあっていきたいですね。
今日の一曲 セルゲイ・プロコフィエフ ピアノソナタ第2番 第4楽章
ブラームスの得意がワルツと子守歌ならプロコフィエフの得意はマーチとタランテラ(単純化しすぎ?)。
一時代前のチャイコフスキーの頃から寒いロシアの作曲家はイタリアの様々な物にあこがれていたようで、その中でも「タランテラ」という舞曲のフォーマットは主にロシア界隈で作曲された物が有名です。
それはソヴィエト時代も続いて、割と「最終楽章がロンドでタランテラ風」というのはちょこちょこ見られるような気がします。その中でもやっぱりこの曲の存在感はしっかりありますねー。
小さい頃弾いたタランテラと(調も一緒ですが)色々似たところありますよ。
プロコフィエフの音楽全般における最大の、そして他ではなかなか見られない特徴、というのがメロディーにおいてやたらと音が飛ぶ、ということ。歌うメロディーだと普通は1オクターブくらいに音域を基本押さえなさい、と言われることもありますが、プロコフィエフのメロディーは1オクターブ音が飛んで、そこからまた同じくらい音が飛んで、などかなりアクロバットな物が多いです。子の曲でも思うんですが弾いてて一苦労。
なにかどこか狂ったような壊れたような、悪夢のサーカスのようなこの楽章のハイライトは中間部。
ものすごーくゆがんだ形でこの楽章で出てきたメロディーの断片が立ち替わり入れ替わり現れる中、執拗に繰り返される「ドのシャープ」。
元々音階において7番目の音は8番目(=1番目)の音、主音に行きたがる引力みたいのがあって。
ドレミファソラシド、だとシ→ドの引力が強いのですが、この曲のニ短調だとド♯→レに行きたがるんですね。
さらにド♯はこのセクションのハーモニーに含まれてない事が多く、突然入って来るとびっくり、だけじゃなく不協和音的な不快感を与えるわけです。
他が全部めまぐるしく狂っててどこにいくか分からないところにこれ(ド♯)で、とにかく聴衆を「早くここから出してくれ!」な状態にしたところでド♯→レの流れ+最初のテーマに戻るところの満足感やプロコフィエフの音楽心理学の勝利ですよ(笑)
とにかく聴いてみてください。プロコフィエフの先ほど書きました「強迫性障害的な」感じが垣間見れるかと思います。
そうするとやっぱり私としてはこの「ド♯」繰り返しの部分がものすごく狂ってる、ド♯がものすごくぶしつけに弾かれてる演奏が好ましい、ということで(笑)
リンクしたCDは私が前購入したやつですが、曲のラインアップが興味深いこと、リヒテルの20世紀音楽の演奏が非常に面白いこと、そして生演奏の粗さもあるながら(それはそれで面白い)この曲の勢い、パワーに圧倒される物凄い録音です。
鬼気迫る恐怖感&毒々しさがもうたまらない!
(こんな風の10分の1でも弾けたらなあ・・・と思うんだけどなあ。)
最近ちょっとだんだん練習レパートリー改編期に入りつつあり。
そのなかでもプーランクの即興曲第3番はものすごく壁にぶち当たった感じでものすごく悔しい感じでギブアップ。
このころころ変わる気質に頭がついてけず集中力が散漫になってしまうのはもっとプーランクを弾き重ねないと慣れないものなのか・・・
嫌いになった訳じゃないのでまたの機会に再チャレンジしたいです。
そしてその他諸々ある中、ふと気づいてみれば去年の春頃?に始めたプロコフィエフのピアノソナタ第2番も最終楽章。1番好きな楽章ですがかなりトリッキーなタランテラ。
目標としては毒いっぱいパワフルに、毒を楽しんで弾けるようになれれば良いかな。独特のユーモアが鋭く突き刺さるのでちょろっとどこかで弾けたらいいな、とか思ってるんですが。
でもプロコフィエフの音楽って私にとっては習得するのも弾くのも聴くのも好きながら人前で弾くとなるとどうも気が引けてしまう感じがあって。
不協和音的なところもありながら曲の組み立て、音の連なりはものすごくロジカルなので問題は暗譜ではないんですよね。
きっと一番キーとなってるのは「自分はプロコフィエフを弾くときに余裕を感じたことがほとんどない」ということかと。
ピアノにおいての技巧のレベル(プロコフィエフの技巧はまたちょっと特殊なとこありますが)もそうですし、ちょっと体力に関するところもあったりするのですが、それだけでなく弾いてて色々余裕を感じられない。
楽しいんだけどどこか心地良さを感じることができない。(そもそも心地良さというのとはちょっと違うのかも)
練習してるのと演奏してるのでは緊張なども相まって身体的に、肉体的に余裕がいつもよりなくなるものなのですが、プロコフィエフの音楽はそこのところが厳しくなりやすいのかもしれませんね。
プロコフィエフは同じ時代・国で生きた、そしてそれにより似たようなテイストを持った音楽を書いたショスタコーヴィチを比較対象にされることが多いですね。なので今回ここでもショスタコと比べるようにしてちょっと話ます。
どちらもソヴィエトの偉大な作曲家で、交響曲などの大ジャンルからもっと小規模の曲までいろいろな音楽を書いています。
この2人の作曲家の違いを説明すると、「ショスタコはうつに似ていて、プロコフィエフは強迫性障害に似ている」というところですかね。つまりショスタコは(ロジカルな組み立てはあるものの)ものすごく感情面の表れが強くて、プロコフィエフは強迫行動を思わせるような執拗さ、そしてものすごい完璧さ、理論の裏付けなどが特徴的。別の言い方だと「ショスタコーヴィチの音楽はこちらをまっすぐ見てくるのが怖いけれど、プロコフィエフはこっちを見もせずにのめりこんでるのが怖い」。
↑は全部あくまでも私の印象・考え・解釈ですがね。
ピアノにおいての立ち位置を考えるとショスタコよりはプロコフィエフの方がよく弾かれてますし、メジャーな曲を書いている印象はありますね。
9つのソナタだったり5つの協奏曲、あとは練習曲など小さな曲まで。ショスタコは24の前奏曲とフーガがあるけどソナタは2つだけだったり、そんなにがっつりピアノ!という感じではないというか。
私はまだ日本にいてピアノを習ってた頃使ってた曲の教則本、というか曲集がソヴィエト音楽中心で、だからショスタコとかプロコフィエフの音楽もちょこちょこ弾いてて。
プロコフィエフの「タランテラ」はそんな中でも印象に残っています。当時からタランテラ好き・ニ短調好きだったので(笑)
あと我が家にPerformaなんとか、というマックのパソコンが来たときについてきた「ピーターと狼」のインタラクティブプログラムでも親しんでましたね。ただピーターと狼がプロコフィエフの作曲だとは当時あんまり思ってなかったかも。
でもそこからプロコフィエフとの接点ってのは結構飛び飛びだったりするような・・・(少なくともショスタコだともっと持続的に愛して、持続的に濃くつきあってる感がありますね)
こっちに来てメル響のコンサートに行ってプロコフィエフの交響曲第3番「炎の天使」を聴いたのは強烈に印象に残ってます。ストーリーのおもしろさ、作曲法とエフェクトの興味深さ、何もかもががつんとくる曲で。
ちなみにあらすじはこちら。このオペラが元となった交響曲で、特に以前紹介した第3楽章のスケルツォなどリアルを超越したようなビビッドである意味えぐい表現に満ちています。
ユースオケだとプロコフィエフは「キージェ中尉」とピアノ協奏曲第2番、そして「ロミオとジュリエット」をやったのみかな。(もっと最近だともちょっとがんがんいっぱい弾いてたのかもしれないけど・・・)
ピアノ協奏曲第2番はこのブログで何回か話に出しているように自分にとってものすごく特別な曲。
本当は交響曲とかも弾きたかったんだけどなあ。第5番は生で聴いてますが。
で、ピアノになると大学以降はop.12の小品のうち5つ、悪魔的暗示、そして今やっているピアノソナタ第2番。
少なさはプロコフィエフが割と大きめの手のために曲を書くこともちょこちょこある、ということも関係していますが・・・それでもなんだか「あれ、これだけ?」な感じですねえ。
悪魔的暗示は大学の最終リサイタル試験で弾いてます。小品もちょっと弾いてるのかな。
にしても何となく経験不足なのかもしれません、演奏に関しては。
先ほど書きましたようにプロコフィエフはピアノのために素晴らしいレパートリーをどんと残してて。
例えばピアノソナタの第6,7,8番は第二次世界大戦の頃に書かれたため「戦争ソナタ」と呼ばれています。大学でも6,7あたり弾いてる人何人かいましたね。
私は戦争ソナタはもうちょっとピアノの技量を磨いて、あと歳を重ねて、30過ぎてからかなあ(笑)
今第2番やってるのがものすごく性に合っててもっと磨いて自分の物にしてみたいですし、同時に第3番(単一楽章)もチャレンジしてみたい。
第6,7番あたりも好きだけれど、まずそこを堅めてもっと好きになってからかな。
そしてできればピアノソナタ、ピアノ協奏曲、できれば小品もリヒテルの演奏で録音をそろえたいですね。
彼の演奏のパワフルさだったり、がっつりピアニズム(がっつり=王道といった意味であり「がっつりしたスタイル」という意味でもあり)、そしてソヴィエトなスタイルとプロコフィエフのトリッキーなテクニックをしっかりものにしてしまう技巧はやっぱりすごい。プロコフィエフはいつだって彼の演奏で聴きたい。
私は女性で体も小さくてソヴィエトに生きることはなかったけれどリヒテルの演奏から学んで身につけたいものいっぱいで。
ショスタコについて書いたとき話しましたが私はソヴィエトとその歴史にものすごくい思い入れがあって、ピアノを弾くにしてもソヴィエトらしくソヴィエト音楽を弾きたい、再現しながら自分の思いの丈を表現したい、と思っています。
そのためにはやっぱりピアノソナタ第2番、悪魔的暗示、それから小品いくつかをしっかり基盤として固めなくちゃいけないかな。パワーと技巧とソヴィエトテイストと、そしてもう少し余裕。
できれば将来的にソナタ第2番は人前でやったほうがいいし、やりたいですし、やれるようになりたい。
またショスタコと比べちゃってあれですが、これまでショスタコと積み重ねたものに負けないくらいの心持ちでプロコフィエフの音楽ともつきあっていきたいですね。
今日の一曲 セルゲイ・プロコフィエフ ピアノソナタ第2番 第4楽章
ブラームスの得意がワルツと子守歌ならプロコフィエフの得意はマーチとタランテラ(単純化しすぎ?)。
一時代前のチャイコフスキーの頃から寒いロシアの作曲家はイタリアの様々な物にあこがれていたようで、その中でも「タランテラ」という舞曲のフォーマットは主にロシア界隈で作曲された物が有名です。
それはソヴィエト時代も続いて、割と「最終楽章がロンドでタランテラ風」というのはちょこちょこ見られるような気がします。その中でもやっぱりこの曲の存在感はしっかりありますねー。
小さい頃弾いたタランテラと(調も一緒ですが)色々似たところありますよ。
プロコフィエフの音楽全般における最大の、そして他ではなかなか見られない特徴、というのがメロディーにおいてやたらと音が飛ぶ、ということ。歌うメロディーだと普通は1オクターブくらいに音域を基本押さえなさい、と言われることもありますが、プロコフィエフのメロディーは1オクターブ音が飛んで、そこからまた同じくらい音が飛んで、などかなりアクロバットな物が多いです。子の曲でも思うんですが弾いてて一苦労。
なにかどこか狂ったような壊れたような、悪夢のサーカスのようなこの楽章のハイライトは中間部。
ものすごーくゆがんだ形でこの楽章で出てきたメロディーの断片が立ち替わり入れ替わり現れる中、執拗に繰り返される「ドのシャープ」。
元々音階において7番目の音は8番目(=1番目)の音、主音に行きたがる引力みたいのがあって。
ドレミファソラシド、だとシ→ドの引力が強いのですが、この曲のニ短調だとド♯→レに行きたがるんですね。
さらにド♯はこのセクションのハーモニーに含まれてない事が多く、突然入って来るとびっくり、だけじゃなく不協和音的な不快感を与えるわけです。
他が全部めまぐるしく狂っててどこにいくか分からないところにこれ(ド♯)で、とにかく聴衆を「早くここから出してくれ!」な状態にしたところでド♯→レの流れ+最初のテーマに戻るところの満足感やプロコフィエフの音楽心理学の勝利ですよ(笑)
とにかく聴いてみてください。プロコフィエフの先ほど書きました「強迫性障害的な」感じが垣間見れるかと思います。
そうするとやっぱり私としてはこの「ド♯」繰り返しの部分がものすごく狂ってる、ド♯がものすごくぶしつけに弾かれてる演奏が好ましい、ということで(笑)
リンクしたCDは私が前購入したやつですが、曲のラインアップが興味深いこと、リヒテルの20世紀音楽の演奏が非常に面白いこと、そして生演奏の粗さもあるながら(それはそれで面白い)この曲の勢い、パワーに圧倒される物凄い録音です。
鬼気迫る恐怖感&毒々しさがもうたまらない!
(こんな風の10分の1でも弾けたらなあ・・・と思うんだけどなあ。)
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