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~名もない蛾と虹の錯乱~ 内の思いと外の色彩をつらつらと。
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色彩いろいろ
前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
だんだんと500エントリーに近づいてますねえ・・・記念エントリー的な、振り返るエントリーにしてみようかな、とも思ってるのですが振り返ろうとするとなんか恥ずかしいんでなんだか進んでません(汗)
・・・まあ、ゆっくりと。

近づいてると言えば碓氷峠音楽堂本舗リアルタイム(オンデマンドですが)まで現在あと20%。季節がどんどん巡っていくのが流れる歌のチョイスでものすごーく感じます。

face to aceの音楽を聴いてて、あれやこれや好きになって最近思うのは「自分の好みってかなり昔から変わらないなー」ということ。
「ヒグラシ」とか「Rain」とか「Wing Archiver II」とか、ジャンルは違ってもどこかちょっと説明しにくいところにこれまで好きになってきた音楽だったり、その他のものだったりに共通するものをちょこちょこ感じるんですよね。

それをなんかこう、自分はひとまとめに「色彩」と呼ぶ癖がついてしまってるのです。
視覚で捉える色だけでなく、五感を始めどんな感覚ともつかないものを「色彩」とどうやら呼ぶようで。
共感覚に関しても連想しているのと区別がそんなにはっきりついていない、というのの他に音が「視覚的な色彩」までつながってるのか、それとも「どんな感覚ともつかない色彩」までしかつながってないのか、そこがよく分からないんですよね。
後者は本当に聴覚だけじゃなくいろんなものとつながってるような感覚があるので・・・うーん、これ一つにしても説明が難しい。

一般的に興味の幅は広いけど本当に好きなものは狭く集中でのめりこむ、という「楽器と性格」シリーズでいうところのチェロ気質を自覚しているのでなるべく視野を広く、好きな物を広げて、と少し意識はしていますが自分がピンポイントで好きな「色彩」はやっぱり(複数ありますが)ずいぶん前から確立してるな、と思います。
これがこう、と具体的に説明できないのですが、例えばたまでいうと滝本さんの音楽の色彩が他のジャンルに関しても根付いてるな、というのは思いますし、変ロ短調への親しみもそうですし。あとは人間に対してもおそらくそれが関連してるのではないかと思われ。
自分の好みがすべてこういう色彩に基づいてるわけではないですが、割と大きな部分を占めていることは確かです。

こないだ思ったのは、暗い曲に惹かれるのは鬱発症前後くらいかと思ってたのですがよくよく考えて見るともう「かなしいずぼん」が「ひるね」の中で一番好きだった時点でその色彩に対する思いは確立されてたんだな、と。(「ひるね」は1991年リリースですが、出てそんなに経ってない頃から聴いてたはず。この頃ハ短調とかニ短調とか好きでしたねえ。「かなしいずぼん」は暗い曲の鑑、ハ短調の鑑だと思います)
大まかな方向としてはこのころもう知り親しんでるショスタコーヴィチの闇に通じるものもあるし、やっぱりそうなのかなあ。

自分でもなかなか説明できない感覚ながらこの視覚に限らない「色彩」にはものすごく貪欲、というか・・・
もっと色彩を感じたい、自分の中に取り込みたい、自分の手で操れるように、なんらかの形で表現できるようになりたい、みたいな欲が常にあるんですよね。
それが音楽だったり(聴くの&選ぶの含め)、絵だったり、文だったり、つたないけれどいろんな方向に現れるのです。
色彩への飢えは今も感じます。あるいは視覚で捉えるものではないものだからこそより強く飢えを感じたり、思い焦がれたりするものなのかもしれませんが・・・

自分の中の色彩をもっと豊かにしながら、自分の中の色彩の調和(かならずしもいつも協和音ではない)、そして色彩の表現を通じて内の色彩と外の色彩の調和、コミュニケーション、ある種の一体化を図る、というのがきっと自分の欲と思いの向かってるところの一部なんだろうな、と思います。
だいぶぼんやりとしていますが、それでも自分の思考と表現が追いつくよりも速く強く自分の心はその「色彩」を求めているので・・・どうやらひた走るしかないようです。

いつもに増してぼんやりしたエントリーですみません・・・


それに加えて今日の一曲はちょっとまとまってないのでお休みです。もうちょっと前から考えとけば(また即時即興エントリーでした)言及があった曲の話ができたのになあ・・・

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