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前回のエントリーに拍手ありがとうございます。
今回はメンタルヘルス関連でちょっと書きたいことがありまして。なるべく簡潔にまとめたいのですが長くなったらすみません(汗)そして自分でももどかしい表現のぐるぐるもすみません・・・
つい先日、こんなツイートのやりとりがありまして。
https://twitter.com/#!/seiki_ryu/status/172145399111483392
文脈としては「理不尽と思われる強い不安を抱え、それにより問題と思われる行動をしている方々に対する対応」についての話で。
その現象・心理の説明としてこういうものがある、とツイートにリンクされているこの「認知のゆがみ」についての説明をリンクしたという経緯です。
このときお話してましたPKA先生(とても頼もしい&楽しいツイートをされるお医者さんでいつもお世話になってます)がこのツイートをリツイートしていただいて。あれよあれよという間に26 Fav・16 RTとたくさんの方の目に触れることとなり・・・
リツイートしていただいた方々、見ていただいた方に本当に感謝しています。
ただ、たくさんの方に見ていただいてるのになんだかリンクに丸投げしてしまった風に後で感じて、ちょこちょこいろいろ懸念など自分の中に出てきてしまって。
なのでツイッターではちょっと不便なので(そして昨日は出かけてしまったので遅れてしまいましたが)この場で少し補足したいと思います。
(まずちょっと私についてなのでお急ぎの方は飛ばしてしまっても大丈夫です)
ツイートでも分かるかと思いますが私は精神医学の専門家ではありません。
双極性障害で治療を受けていて、薬も飲んでますが私の主治医が「認知行動療法」といわれる治療法を専門としていて、入院した時も入院中の患者さんのため行われているプログラムでそういったアプローチについて学んだり、実際治療として実践したり。認知行動療法は自分にとってはある程度助けになったと思っています。
精神医学には興味があって自分なりに勉強したりしてますが、主な知識は治療を受けた経験、主治医や入院していたときの患者さん仲間との経験から来ています。
(ついでにずっとメルボルンに住んでるので日本のメンタルヘルス事情は聴いたり読んだりでしか知らないので誤認があったらすみません)
この「認知のゆがみ」については入院のプログラムで知りました。
(その当時のプリントがとってあって、思い出した時にそれになるべく近いものを日本語で、わかりやすいものがないかと調べた結果が上記のリンクしたページです)
リンクしたページにあるような「認知のゆがみ」は認知行動療法のなかでもわりと頻繁に扱われるトピックで(プログラムでも重点的に扱われ)、鬱や不安障害などに深く関わるもので。
間違った方向に敷かれてしまった思考のレールが感情や行動に影響を及ぼすのをロジカルなアプローチでほどいていく、というプロセスがこの治療では要となります。
リンクしたページも、私の持ってるプリントも「自分を」「自分が」と自分に対するケアを前提していますがもちろん他人に向けて同じ事を行うこともできます。(自分で気づくのはものすごく困難な場合もありますしね)
治療のテクニックではあるんですが、改めて読んでみると同時に「話術」でもあり「コミュニケーション法」でもあり、「困っている人との接し方」でもあるんですよね。
そもそも「認知のゆがみ」というのは心の病を患っている人だけじゃなく、誰でも経験し得る、程度こそ違えど多くの人が経験したことのあることなんです。
例えばことわざで言うところの「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」、みたいなことだったり、バイアス・偏見だったり。
私が自分のツイートが拡散されてまず懸念したことが、「認知のゆがみ」がある人を心の病を患っていると決めつける人が出るかもしれないことなんです。
「認知のゆがみ」に影響されている人は普段よりもかたくなになって、自分を否定するような意見をより強くシャットアウトする傾向があって。
いつも思っているのですが、それが治療であろうとそうでなかろうと、助けを求める事に対して周りが敷居を高くしちゃいけない。
認知のゆがみ≠心の病、ですがかたくなに心を閉ざしたまま、助けを求めることを拒否したまま、認知のゆがみが自己増強していくのに任せるとそれこそ本当に心の病を発症しかねないです。
そもそもこの「認知のゆがみ」を解く作業はその影響下にある人が自分で気づき、かたくなな心を解いてケアを受ける状態に導く役割もあるので。
そして「認知のゆがみ」について学ばなくちゃいけないのはその影響下にある人自身だけではないと思います。
精神疾患を患う患者さんが全般的に増えたり、ネットでいろんな人と接するようになったりで、心の病を患ってる人、認知のゆがみを持ってる人に接する機会も多くなり。
そういう人たちを助けなきゃいけない、とはいいませんが(無理ですし)、せめてその人達に対して逆効果なことをするのだけはやめようよ、と思うのです。
シンプルなところから始めると「認知のゆがみ」の影響下にある人を馬鹿にしちゃいけませんし、レッテルを貼ったり感情に基づいて行動していることを揶揄したり、そういうことが余計に相手を煽り、「認知のゆがみ」を増強することにつながるんです。こういうコミュニケーションミスなどによる問題悪化は広義でのメンタルヘルスにおいてあまりにも多く起こっている悲劇だと思います。
それからもう一つ言いたかったのが、認知のゆがみを解くのには相手に真摯に向き合うこと、慎重に考えること、お互いの信頼、そして何よりも根気が必要で、本当にやろうと思ったら結構覚悟がいることです。
(例えば不安障害の治療で認知行動療法が使われたりしますが、双方にとってものすごーく大変です)
だから先ほど言いましたように専門家でない人自らがそれを実践する必要はどこにもないのですが、とりあえず逆効果になるようなことは避けてくれ、と。
あとは結びとしてちょっと。(飛ばしていいとこです)
不安や恐怖を抱えている人は「共感」を求めてるため、そういう人に接するときは理論でアプローチするのは逆効果、と思われている節もあるのですが、それは必ずしもそうでなくてやり方によりけりなんですよね。
不安とか恐怖は「認知のゆがみ」についての説明にもあるように思考・論理(この場合間違ったもの)によって支えつながれてることがあって、そういう時にはその間違った思考・論理を断ち切るのが根本的な解決策になる場合もあって。
だからってそこに「共感」の入る余地がないってわけでもないです。相手が感じていることとそのプロセスを分かって、理解した上で認知のゆがみがない立場から一緒にほどいていくことが求められるわけですから。(ただやっぱり1人は冷静じゃないと。)
私のドクターとここ数年認知行動療法を自分にどう適用していくか、自分で自分をケア・モニタリングするのにどう使えば良いかを模索してきて思ったのは、認知行動療法のテクニックの中には心の病を抱えていない人にもものすごく有用なものがある、ということです。
それこそ喧嘩とか人との理不尽な衝突を防ぐのにも使えそうなものもありますし、心の病を発症するまえに自分で気づいてケアできるようにできるテクニックもありますし、先ほど書きましたがケアが必要でそれを拒否している人に敷居を下げる、助けに向かって誘導するのにも。知ってて損はないと思います。
(そもそもメンタルヘルスのケアについての日本での認識とか言いたいことたくさんありますがここではぐっと我慢)
結局長くなりました、ものすごくすみません。(普段から言いたいようなことも混ざっちゃって・・・)
リンクしただけじゃなんかだめな気がしたんです。ものすごく関連があって、使いようによっちゃあものすごく有用な情報なんだけど、丸投げしたら誤用につながりかねないと。
そしてどうしてもメンタルヘルスに話が絡んでくると、不安を抱えてしかも助けを得られない人がいるとじっとしてられなくて。
ここまで目を通してくれて誠にありがとうございます。
人を救いたい、なんて大それたことは思ってないのですが、不要な衝突を避けられれば、不要な問題悪化を防げれば、不安やフラストレーションが少しでも減ればいいな、と思ってす。
今日の一曲: フランツ・シューベルト 即興曲 D899 (op.90) 第4番
前回休んだので今回はやります。
まず・・・えーっと、こっちでいいんだよね(汗)シューベルトは作品番号がちょっとややこしい。
即興曲は4曲の曲集が2つあって、最初の方のなかの第4番です(もう一つの第4番も好きですが)。
シューベルトって31歳とかまでしか生きてないのに恐ろしく多作で。特に600曲以上の歌曲!というのが有名ですが。物理的にどういうペースだったんでしょ。
でも厳しいことをいえば多作な作曲家って割と曲のクオリティにムラができるんですよね。シューベルトも例外じゃないです。そんなに低いクオリティがでてくるわけではないですが、ムラは確かにある。
そんななかこの即興曲は中学?高校?時代に弾いてから割とコンスタントな評価を保っています(あくまでも個人的なものですが)。色彩が美しくて、ピアノ音楽としても美しく、楽しく割と苦がなく弾けるのもあります。
あとシューベルトが得意なウィーン風のダンスと歌い上げるメロディーが楽しめるのもおいしい♪
途中で出てくる左手のチェロっぽいメロディーはもう単純に快感ですね~
色彩が美しいと言いましたがとにかくカラフル。
調としては仄かに暗い変イ短調、豊かな変イ長調、かすかに苦悩のヘ短調を挟んだりもしながら、あと中間部のドラマチックな嬰ハ短調とか。
ベートーヴェン(同時代)だったらそれを鮮やかなカラフルに仕立てるであろうところをシューベルトは優雅な繊細さを持ったカラフルに仕上げて。
曲の規模は大きくないですがシューベルトの「当たり」曲なのは確実だと思います。
シューベルトはぜひブレンデルの演奏で。他の即興曲も有名なものそうでないもの合わせて良い物ありますよー。
今回はメンタルヘルス関連でちょっと書きたいことがありまして。なるべく簡潔にまとめたいのですが長くなったらすみません(汗)そして自分でももどかしい表現のぐるぐるもすみません・・・
つい先日、こんなツイートのやりとりがありまして。
https://twitter.com/#!/seiki_ryu/status/172145399111483392
文脈としては「理不尽と思われる強い不安を抱え、それにより問題と思われる行動をしている方々に対する対応」についての話で。
その現象・心理の説明としてこういうものがある、とツイートにリンクされているこの「認知のゆがみ」についての説明をリンクしたという経緯です。
このときお話してましたPKA先生(とても頼もしい&楽しいツイートをされるお医者さんでいつもお世話になってます)がこのツイートをリツイートしていただいて。あれよあれよという間に26 Fav・16 RTとたくさんの方の目に触れることとなり・・・
リツイートしていただいた方々、見ていただいた方に本当に感謝しています。
ただ、たくさんの方に見ていただいてるのになんだかリンクに丸投げしてしまった風に後で感じて、ちょこちょこいろいろ懸念など自分の中に出てきてしまって。
なのでツイッターではちょっと不便なので(そして昨日は出かけてしまったので遅れてしまいましたが)この場で少し補足したいと思います。
(まずちょっと私についてなのでお急ぎの方は飛ばしてしまっても大丈夫です)
ツイートでも分かるかと思いますが私は精神医学の専門家ではありません。
双極性障害で治療を受けていて、薬も飲んでますが私の主治医が「認知行動療法」といわれる治療法を専門としていて、入院した時も入院中の患者さんのため行われているプログラムでそういったアプローチについて学んだり、実際治療として実践したり。認知行動療法は自分にとってはある程度助けになったと思っています。
精神医学には興味があって自分なりに勉強したりしてますが、主な知識は治療を受けた経験、主治医や入院していたときの患者さん仲間との経験から来ています。
(ついでにずっとメルボルンに住んでるので日本のメンタルヘルス事情は聴いたり読んだりでしか知らないので誤認があったらすみません)
この「認知のゆがみ」については入院のプログラムで知りました。
(その当時のプリントがとってあって、思い出した時にそれになるべく近いものを日本語で、わかりやすいものがないかと調べた結果が上記のリンクしたページです)
リンクしたページにあるような「認知のゆがみ」は認知行動療法のなかでもわりと頻繁に扱われるトピックで(プログラムでも重点的に扱われ)、鬱や不安障害などに深く関わるもので。
間違った方向に敷かれてしまった思考のレールが感情や行動に影響を及ぼすのをロジカルなアプローチでほどいていく、というプロセスがこの治療では要となります。
リンクしたページも、私の持ってるプリントも「自分を」「自分が」と自分に対するケアを前提していますがもちろん他人に向けて同じ事を行うこともできます。(自分で気づくのはものすごく困難な場合もありますしね)
治療のテクニックではあるんですが、改めて読んでみると同時に「話術」でもあり「コミュニケーション法」でもあり、「困っている人との接し方」でもあるんですよね。
そもそも「認知のゆがみ」というのは心の病を患っている人だけじゃなく、誰でも経験し得る、程度こそ違えど多くの人が経験したことのあることなんです。
例えばことわざで言うところの「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」、みたいなことだったり、バイアス・偏見だったり。
私が自分のツイートが拡散されてまず懸念したことが、「認知のゆがみ」がある人を心の病を患っていると決めつける人が出るかもしれないことなんです。
「認知のゆがみ」に影響されている人は普段よりもかたくなになって、自分を否定するような意見をより強くシャットアウトする傾向があって。
いつも思っているのですが、それが治療であろうとそうでなかろうと、助けを求める事に対して周りが敷居を高くしちゃいけない。
認知のゆがみ≠心の病、ですがかたくなに心を閉ざしたまま、助けを求めることを拒否したまま、認知のゆがみが自己増強していくのに任せるとそれこそ本当に心の病を発症しかねないです。
そもそもこの「認知のゆがみ」を解く作業はその影響下にある人が自分で気づき、かたくなな心を解いてケアを受ける状態に導く役割もあるので。
そして「認知のゆがみ」について学ばなくちゃいけないのはその影響下にある人自身だけではないと思います。
精神疾患を患う患者さんが全般的に増えたり、ネットでいろんな人と接するようになったりで、心の病を患ってる人、認知のゆがみを持ってる人に接する機会も多くなり。
そういう人たちを助けなきゃいけない、とはいいませんが(無理ですし)、せめてその人達に対して逆効果なことをするのだけはやめようよ、と思うのです。
シンプルなところから始めると「認知のゆがみ」の影響下にある人を馬鹿にしちゃいけませんし、レッテルを貼ったり感情に基づいて行動していることを揶揄したり、そういうことが余計に相手を煽り、「認知のゆがみ」を増強することにつながるんです。こういうコミュニケーションミスなどによる問題悪化は広義でのメンタルヘルスにおいてあまりにも多く起こっている悲劇だと思います。
それからもう一つ言いたかったのが、認知のゆがみを解くのには相手に真摯に向き合うこと、慎重に考えること、お互いの信頼、そして何よりも根気が必要で、本当にやろうと思ったら結構覚悟がいることです。
(例えば不安障害の治療で認知行動療法が使われたりしますが、双方にとってものすごーく大変です)
だから先ほど言いましたように専門家でない人自らがそれを実践する必要はどこにもないのですが、とりあえず逆効果になるようなことは避けてくれ、と。
あとは結びとしてちょっと。(飛ばしていいとこです)
不安や恐怖を抱えている人は「共感」を求めてるため、そういう人に接するときは理論でアプローチするのは逆効果、と思われている節もあるのですが、それは必ずしもそうでなくてやり方によりけりなんですよね。
不安とか恐怖は「認知のゆがみ」についての説明にもあるように思考・論理(この場合間違ったもの)によって支えつながれてることがあって、そういう時にはその間違った思考・論理を断ち切るのが根本的な解決策になる場合もあって。
だからってそこに「共感」の入る余地がないってわけでもないです。相手が感じていることとそのプロセスを分かって、理解した上で認知のゆがみがない立場から一緒にほどいていくことが求められるわけですから。(ただやっぱり1人は冷静じゃないと。)
私のドクターとここ数年認知行動療法を自分にどう適用していくか、自分で自分をケア・モニタリングするのにどう使えば良いかを模索してきて思ったのは、認知行動療法のテクニックの中には心の病を抱えていない人にもものすごく有用なものがある、ということです。
それこそ喧嘩とか人との理不尽な衝突を防ぐのにも使えそうなものもありますし、心の病を発症するまえに自分で気づいてケアできるようにできるテクニックもありますし、先ほど書きましたがケアが必要でそれを拒否している人に敷居を下げる、助けに向かって誘導するのにも。知ってて損はないと思います。
(そもそもメンタルヘルスのケアについての日本での認識とか言いたいことたくさんありますがここではぐっと我慢)
結局長くなりました、ものすごくすみません。(普段から言いたいようなことも混ざっちゃって・・・)
リンクしただけじゃなんかだめな気がしたんです。ものすごく関連があって、使いようによっちゃあものすごく有用な情報なんだけど、丸投げしたら誤用につながりかねないと。
そしてどうしてもメンタルヘルスに話が絡んでくると、不安を抱えてしかも助けを得られない人がいるとじっとしてられなくて。
ここまで目を通してくれて誠にありがとうございます。
人を救いたい、なんて大それたことは思ってないのですが、不要な衝突を避けられれば、不要な問題悪化を防げれば、不安やフラストレーションが少しでも減ればいいな、と思ってす。
今日の一曲: フランツ・シューベルト 即興曲 D899 (op.90) 第4番
前回休んだので今回はやります。
まず・・・えーっと、こっちでいいんだよね(汗)シューベルトは作品番号がちょっとややこしい。
即興曲は4曲の曲集が2つあって、最初の方のなかの第4番です(もう一つの第4番も好きですが)。
シューベルトって31歳とかまでしか生きてないのに恐ろしく多作で。特に600曲以上の歌曲!というのが有名ですが。物理的にどういうペースだったんでしょ。
でも厳しいことをいえば多作な作曲家って割と曲のクオリティにムラができるんですよね。シューベルトも例外じゃないです。そんなに低いクオリティがでてくるわけではないですが、ムラは確かにある。
そんななかこの即興曲は中学?高校?時代に弾いてから割とコンスタントな評価を保っています(あくまでも個人的なものですが)。色彩が美しくて、ピアノ音楽としても美しく、楽しく割と苦がなく弾けるのもあります。
あとシューベルトが得意なウィーン風のダンスと歌い上げるメロディーが楽しめるのもおいしい♪
途中で出てくる左手のチェロっぽいメロディーはもう単純に快感ですね~
色彩が美しいと言いましたがとにかくカラフル。
調としては仄かに暗い変イ短調、豊かな変イ長調、かすかに苦悩のヘ短調を挟んだりもしながら、あと中間部のドラマチックな嬰ハ短調とか。
ベートーヴェン(同時代)だったらそれを鮮やかなカラフルに仕立てるであろうところをシューベルトは優雅な繊細さを持ったカラフルに仕上げて。
曲の規模は大きくないですがシューベルトの「当たり」曲なのは確実だと思います。
シューベルトはぜひブレンデルの演奏で。他の即興曲も有名なものそうでないもの合わせて良い物ありますよー。
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前回のエントリーに拍手ありがとうございます!
だんだんと500エントリーに近づいてますねえ・・・記念エントリー的な、振り返るエントリーにしてみようかな、とも思ってるのですが振り返ろうとするとなんか恥ずかしいんでなんだか進んでません(汗)
・・・まあ、ゆっくりと。
近づいてると言えば碓氷峠音楽堂本舗リアルタイム(オンデマンドですが)まで現在あと20%。季節がどんどん巡っていくのが流れる歌のチョイスでものすごーく感じます。
face to aceの音楽を聴いてて、あれやこれや好きになって最近思うのは「自分の好みってかなり昔から変わらないなー」ということ。
「ヒグラシ」とか「Rain」とか「Wing Archiver II」とか、ジャンルは違ってもどこかちょっと説明しにくいところにこれまで好きになってきた音楽だったり、その他のものだったりに共通するものをちょこちょこ感じるんですよね。
それをなんかこう、自分はひとまとめに「色彩」と呼ぶ癖がついてしまってるのです。
視覚で捉える色だけでなく、五感を始めどんな感覚ともつかないものを「色彩」とどうやら呼ぶようで。
共感覚に関しても連想しているのと区別がそんなにはっきりついていない、というのの他に音が「視覚的な色彩」までつながってるのか、それとも「どんな感覚ともつかない色彩」までしかつながってないのか、そこがよく分からないんですよね。
後者は本当に聴覚だけじゃなくいろんなものとつながってるような感覚があるので・・・うーん、これ一つにしても説明が難しい。
一般的に興味の幅は広いけど本当に好きなものは狭く集中でのめりこむ、という「楽器と性格」シリーズでいうところのチェロ気質を自覚しているのでなるべく視野を広く、好きな物を広げて、と少し意識はしていますが自分がピンポイントで好きな「色彩」はやっぱり(複数ありますが)ずいぶん前から確立してるな、と思います。
これがこう、と具体的に説明できないのですが、例えばたまでいうと滝本さんの音楽の色彩が他のジャンルに関しても根付いてるな、というのは思いますし、変ロ短調への親しみもそうですし。あとは人間に対してもおそらくそれが関連してるのではないかと思われ。
自分の好みがすべてこういう色彩に基づいてるわけではないですが、割と大きな部分を占めていることは確かです。
こないだ思ったのは、暗い曲に惹かれるのは鬱発症前後くらいかと思ってたのですがよくよく考えて見るともう「かなしいずぼん」が「ひるね」の中で一番好きだった時点でその色彩に対する思いは確立されてたんだな、と。(「ひるね」は1991年リリースですが、出てそんなに経ってない頃から聴いてたはず。この頃ハ短調とかニ短調とか好きでしたねえ。「かなしいずぼん」は暗い曲の鑑、ハ短調の鑑だと思います)
大まかな方向としてはこのころもう知り親しんでるショスタコーヴィチの闇に通じるものもあるし、やっぱりそうなのかなあ。
自分でもなかなか説明できない感覚ながらこの視覚に限らない「色彩」にはものすごく貪欲、というか・・・
もっと色彩を感じたい、自分の中に取り込みたい、自分の手で操れるように、なんらかの形で表現できるようになりたい、みたいな欲が常にあるんですよね。
それが音楽だったり(聴くの&選ぶの含め)、絵だったり、文だったり、つたないけれどいろんな方向に現れるのです。
色彩への飢えは今も感じます。あるいは視覚で捉えるものではないものだからこそより強く飢えを感じたり、思い焦がれたりするものなのかもしれませんが・・・
自分の中の色彩をもっと豊かにしながら、自分の中の色彩の調和(かならずしもいつも協和音ではない)、そして色彩の表現を通じて内の色彩と外の色彩の調和、コミュニケーション、ある種の一体化を図る、というのがきっと自分の欲と思いの向かってるところの一部なんだろうな、と思います。
だいぶぼんやりとしていますが、それでも自分の思考と表現が追いつくよりも速く強く自分の心はその「色彩」を求めているので・・・どうやらひた走るしかないようです。
いつもに増してぼんやりしたエントリーですみません・・・
それに加えて今日の一曲はちょっとまとまってないのでお休みです。もうちょっと前から考えとけば(また即時即興エントリーでした)言及があった曲の話ができたのになあ・・・
だんだんと500エントリーに近づいてますねえ・・・記念エントリー的な、振り返るエントリーにしてみようかな、とも思ってるのですが振り返ろうとするとなんか恥ずかしいんでなんだか進んでません(汗)
・・・まあ、ゆっくりと。
近づいてると言えば碓氷峠音楽堂本舗リアルタイム(オンデマンドですが)まで現在あと20%。季節がどんどん巡っていくのが流れる歌のチョイスでものすごーく感じます。
face to aceの音楽を聴いてて、あれやこれや好きになって最近思うのは「自分の好みってかなり昔から変わらないなー」ということ。
「ヒグラシ」とか「Rain」とか「Wing Archiver II」とか、ジャンルは違ってもどこかちょっと説明しにくいところにこれまで好きになってきた音楽だったり、その他のものだったりに共通するものをちょこちょこ感じるんですよね。
それをなんかこう、自分はひとまとめに「色彩」と呼ぶ癖がついてしまってるのです。
視覚で捉える色だけでなく、五感を始めどんな感覚ともつかないものを「色彩」とどうやら呼ぶようで。
共感覚に関しても連想しているのと区別がそんなにはっきりついていない、というのの他に音が「視覚的な色彩」までつながってるのか、それとも「どんな感覚ともつかない色彩」までしかつながってないのか、そこがよく分からないんですよね。
後者は本当に聴覚だけじゃなくいろんなものとつながってるような感覚があるので・・・うーん、これ一つにしても説明が難しい。
一般的に興味の幅は広いけど本当に好きなものは狭く集中でのめりこむ、という「楽器と性格」シリーズでいうところのチェロ気質を自覚しているのでなるべく視野を広く、好きな物を広げて、と少し意識はしていますが自分がピンポイントで好きな「色彩」はやっぱり(複数ありますが)ずいぶん前から確立してるな、と思います。
これがこう、と具体的に説明できないのですが、例えばたまでいうと滝本さんの音楽の色彩が他のジャンルに関しても根付いてるな、というのは思いますし、変ロ短調への親しみもそうですし。あとは人間に対してもおそらくそれが関連してるのではないかと思われ。
自分の好みがすべてこういう色彩に基づいてるわけではないですが、割と大きな部分を占めていることは確かです。
こないだ思ったのは、暗い曲に惹かれるのは鬱発症前後くらいかと思ってたのですがよくよく考えて見るともう「かなしいずぼん」が「ひるね」の中で一番好きだった時点でその色彩に対する思いは確立されてたんだな、と。(「ひるね」は1991年リリースですが、出てそんなに経ってない頃から聴いてたはず。この頃ハ短調とかニ短調とか好きでしたねえ。「かなしいずぼん」は暗い曲の鑑、ハ短調の鑑だと思います)
大まかな方向としてはこのころもう知り親しんでるショスタコーヴィチの闇に通じるものもあるし、やっぱりそうなのかなあ。
自分でもなかなか説明できない感覚ながらこの視覚に限らない「色彩」にはものすごく貪欲、というか・・・
もっと色彩を感じたい、自分の中に取り込みたい、自分の手で操れるように、なんらかの形で表現できるようになりたい、みたいな欲が常にあるんですよね。
それが音楽だったり(聴くの&選ぶの含め)、絵だったり、文だったり、つたないけれどいろんな方向に現れるのです。
色彩への飢えは今も感じます。あるいは視覚で捉えるものではないものだからこそより強く飢えを感じたり、思い焦がれたりするものなのかもしれませんが・・・
自分の中の色彩をもっと豊かにしながら、自分の中の色彩の調和(かならずしもいつも協和音ではない)、そして色彩の表現を通じて内の色彩と外の色彩の調和、コミュニケーション、ある種の一体化を図る、というのがきっと自分の欲と思いの向かってるところの一部なんだろうな、と思います。
だいぶぼんやりとしていますが、それでも自分の思考と表現が追いつくよりも速く強く自分の心はその「色彩」を求めているので・・・どうやらひた走るしかないようです。
いつもに増してぼんやりしたエントリーですみません・・・
それに加えて今日の一曲はちょっとまとまってないのでお休みです。もうちょっと前から考えとけば(また即時即興エントリーでした)言及があった曲の話ができたのになあ・・・
いつも訪問そして拍手ありがとうございます~
ここ数日連続更新ですねー・・・なにかと話したいことが出てくるんですよ。書き物とかにもエネルギーを割きたいけれどどうしても書かなくちゃ気が済まなくて。(できればこの後・・・)
つい最近弾き始めて、昨日もちょっと話していたバッハの「平均律クラヴィーア曲集」第2巻の第8番、嬰ニ短調。
そもそもが私は♯を読むのが嫌い、苦手で。以前ショパンの練習曲op.10-4を弾いた時、嬰ハ短調=♯4つにもかかわらず楽譜の読みにくさがネックでギブアップしてたり(汗)
でも今弾いてるこの曲はジョージ・クラムが好きだといった曲で、マクロコスモス第3巻「夏の夜の音楽」の最終楽章にも引用されているのでどこらへんが好きなのか知りたくて弾き始めたのです。
(ちなみに同じく第2巻、から嬰ヘ短調がお気に入りだったのはベートーヴェンだったっけ)
嬰ニ短調ってものすごくレアな調なんですよね。
鍵盤で弾くと全く同じ音になる変ホ短調の方がずっと読みやすい、というのが主な理由で(それだけでないことは後ほどまた)。
なので嬰ニ短調で書かれている曲、というとさきほどのWikipediaのリンクにあるようにバッハの平均律第1巻の第8番(フーガのみ。前奏曲は変ホ短調表記)、同第2巻の第8番(前奏曲+フーガ)、スクリャービンの練習曲op.8-12くらい。
私の印象だと「嬰ニ短調」を特徴付けるのは(24keysvirusでは元ウイルスはバッハと以前書いてますが)後者のスクリャービンが一番だと思います。
嬰ニ短調と変ホ短調、鍵盤上の音は全く一緒ですが、やっぱり弾く側にとって楽譜面からの印象に差はでると思います。シャープとフラット、それぞれから最初に受ける感覚ってのは違うんじゃないかな。
それだけでなく、こうやって♯の多い曲を弾いてるとなんとなく思うのですが、曲の中で転調していくキーも♯基本の調と♭基本の調で違うんじゃないかと。
どちらもより読みやすい、記号が少ない方向に進みやすいはず・・・なんですよね。
で、今回の平均律第2巻の嬰ニ短調。
まずは前奏曲を練習し始め「ここ楽譜の音あってる?」というところがいくつかあって、パソコンでyoutubeからちょっと聴いてたのですが(持ってる録音はバロック時代のチューニングなので半音ほど低く参考にならない・・・)、そのときに妹がふとこんなことを。
「ずいぶん忙しい曲だね。」
この言葉をきっかけにしてこの曲に関するいろいろなことがどんどん明らかになったのです。
この前奏曲、バッハの「前奏曲」によくある典型的な「インヴェンション」形式なんですが、もともと最初聴いたときからちょっとどこか「もろい」ような、それもまた正確じゃないですがそんな感覚があって。
で、弾いてみるとバッハの音楽に感じる精密さというか完璧さみたいのの中になにやらちょっと脆弱性?とまではいわなくてもちょっとしたぎこちなさが見られたり。
バッハでよく見られるあのどっしりした、確固たる信仰みたいなのが見られないんですよねー。
で、この妹の言葉で気づいたのが確かにこの前奏曲は音が忙しいこと。むしろちょっと不自然なくらい。バッハの音楽はアドリブで装飾音をつけたりするんですがその余裕もほとんどない。
改めて感じて考えて見ると、この忙しさは不安定さをなんとか支えようとしてこうなった、というか・・・隙間、スペースを恐れたり不安に感じて詰め込んだ、というかそういう感覚に近いんですよね。興奮、というかものすごい焦り。
それはまずこのキーが先ほどのぎこちなさに見られるように「書きにくかった」こともきっとあるでしょうし。そして何よりもきっと嬰ニ短調というキーが不安定なことに加えて転調する先の調も不安定な、ちょっと躁的な性質を持った調が多い、という事があるんだと思います。
(あくまでも私の見解です。そして「変ホ短調」だとこのとおりではないんですよね。変ホ短調自体暗い落ち着きのある調で、転調する先も安定してる方が多いような。)
フーガの方はまだじっくり弾いてないので分からないのですが、その嬰ニ短調のフーガが引用されている前述クラムの「夏の夜の音楽」でも引用部分は進みながらも落ちてしまう、迷いながら一生懸命進んでいくような性質があったり。どれくらい関連があるかはまだ吟味中。
そして先ほど書きましたようにバッハの平均律で第1巻はフーガのみ嬰ニ短調で書かれてる・・・はずなのですが手持ちの楽譜はわざわざ変ホ短調に書き直してありました。(こういう版けっこうあるらしいですね。余計なお世話だと思います。上記「違い」を認識してからは)
このフーガも弾いたことはないんですが、楽譜面だけ見てみるとこれもまたちょっと音多くないか?という印象。これも後ほど検討。
そしてスクリャービンの練習曲(op.8-12)。スクリャービンはどっちかというと♯贔屓なんですよね(表現したい色彩もそうですし、若干躁気味な感覚もまたふさわしいというか)。
この曲の燃え上がるような興奮した感じはフラットで書いてしまうと印象として感じられないですし、フラットで書いてあるのを弾いても違和感がありそうで。
この曲の性質は変ホ短調よりも、例えば同じ♯短調の「嬰ハ短調」に近いものがある気がします。(24keysvirusでは「竜」。燃えさかる炎と冷酷さが同居する、と形容したと思います)
でも嬰ニ短調の方がずっと激高した感じがあって、落ち着きがなくて、変に明るい印象を受けるような。
自分が双極性障害を持っているのもあると思いますが、頭の中で警鐘が鳴るような、軽躁状態を連想するようななにかがある。
「嬰ニ短調」というこの調を通じてバッハが表現したかったものが何か、そしてそれにクラムが惹かれたのは何か、というのは確信が持てないのですが・・・
私はこの調から強く感じる不安さ、脆さ、切実さ、なんらかの狂気をこれからどう扱って、表現していけばいいのか・・・ということを考え始めてます。
そしてこの強烈な不安定さはいつか演奏するときのプログラムにおいてどう扱えばいいか、というのも改めて課題となりますね。この不安定さがうまく働かないようだったら抜群の安定さのトッカータホ短調が有力になるかなあ。
今日の一曲: ヨハン・セバスチャン・バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第2巻第8番 嬰ニ短調
さんざん話したのと、まだいろいろ探っている途中なので説明は省きます。
先ほども書きましたがこの曲は前奏曲とフーガからなっていて、クラムがマクロコスモス第3巻「夏の夜の音楽」の第5楽章「星屑の音楽」の前半で引用されているのはこの内のフーガの一部です。
リンクした録音はグレン・グールドのもの。グールドの音楽の解釈はちょっと特殊で、あとたまに鼻歌歌ってるのが入ってたりもするので好みが分かれますが今日ちょろっと聴いた限りではそんなに変だということもなかったので、試聴もありますしこれにしてみました。
ちなみに同じく嬰ニ短調の曲として紹介しましたスクリャービンの練習曲op.8-12もまた名曲です。紹介は別の機会にしますがこちらも強くおすすめしますよ~
ここ数日連続更新ですねー・・・なにかと話したいことが出てくるんですよ。書き物とかにもエネルギーを割きたいけれどどうしても書かなくちゃ気が済まなくて。(できればこの後・・・)
つい最近弾き始めて、昨日もちょっと話していたバッハの「平均律クラヴィーア曲集」第2巻の第8番、嬰ニ短調。
そもそもが私は♯を読むのが嫌い、苦手で。以前ショパンの練習曲op.10-4を弾いた時、嬰ハ短調=♯4つにもかかわらず楽譜の読みにくさがネックでギブアップしてたり(汗)
でも今弾いてるこの曲はジョージ・クラムが好きだといった曲で、マクロコスモス第3巻「夏の夜の音楽」の最終楽章にも引用されているのでどこらへんが好きなのか知りたくて弾き始めたのです。
(ちなみに同じく第2巻、から嬰ヘ短調がお気に入りだったのはベートーヴェンだったっけ)
嬰ニ短調ってものすごくレアな調なんですよね。
鍵盤で弾くと全く同じ音になる変ホ短調の方がずっと読みやすい、というのが主な理由で(それだけでないことは後ほどまた)。
なので嬰ニ短調で書かれている曲、というとさきほどのWikipediaのリンクにあるようにバッハの平均律第1巻の第8番(フーガのみ。前奏曲は変ホ短調表記)、同第2巻の第8番(前奏曲+フーガ)、スクリャービンの練習曲op.8-12くらい。
私の印象だと「嬰ニ短調」を特徴付けるのは(24keysvirusでは元ウイルスはバッハと以前書いてますが)後者のスクリャービンが一番だと思います。
嬰ニ短調と変ホ短調、鍵盤上の音は全く一緒ですが、やっぱり弾く側にとって楽譜面からの印象に差はでると思います。シャープとフラット、それぞれから最初に受ける感覚ってのは違うんじゃないかな。
それだけでなく、こうやって♯の多い曲を弾いてるとなんとなく思うのですが、曲の中で転調していくキーも♯基本の調と♭基本の調で違うんじゃないかと。
どちらもより読みやすい、記号が少ない方向に進みやすいはず・・・なんですよね。
で、今回の平均律第2巻の嬰ニ短調。
まずは前奏曲を練習し始め「ここ楽譜の音あってる?」というところがいくつかあって、パソコンでyoutubeからちょっと聴いてたのですが(持ってる録音はバロック時代のチューニングなので半音ほど低く参考にならない・・・)、そのときに妹がふとこんなことを。
「ずいぶん忙しい曲だね。」
この言葉をきっかけにしてこの曲に関するいろいろなことがどんどん明らかになったのです。
この前奏曲、バッハの「前奏曲」によくある典型的な「インヴェンション」形式なんですが、もともと最初聴いたときからちょっとどこか「もろい」ような、それもまた正確じゃないですがそんな感覚があって。
で、弾いてみるとバッハの音楽に感じる精密さというか完璧さみたいのの中になにやらちょっと脆弱性?とまではいわなくてもちょっとしたぎこちなさが見られたり。
バッハでよく見られるあのどっしりした、確固たる信仰みたいなのが見られないんですよねー。
で、この妹の言葉で気づいたのが確かにこの前奏曲は音が忙しいこと。むしろちょっと不自然なくらい。バッハの音楽はアドリブで装飾音をつけたりするんですがその余裕もほとんどない。
改めて感じて考えて見ると、この忙しさは不安定さをなんとか支えようとしてこうなった、というか・・・隙間、スペースを恐れたり不安に感じて詰め込んだ、というかそういう感覚に近いんですよね。興奮、というかものすごい焦り。
それはまずこのキーが先ほどのぎこちなさに見られるように「書きにくかった」こともきっとあるでしょうし。そして何よりもきっと嬰ニ短調というキーが不安定なことに加えて転調する先の調も不安定な、ちょっと躁的な性質を持った調が多い、という事があるんだと思います。
(あくまでも私の見解です。そして「変ホ短調」だとこのとおりではないんですよね。変ホ短調自体暗い落ち着きのある調で、転調する先も安定してる方が多いような。)
フーガの方はまだじっくり弾いてないので分からないのですが、その嬰ニ短調のフーガが引用されている前述クラムの「夏の夜の音楽」でも引用部分は進みながらも落ちてしまう、迷いながら一生懸命進んでいくような性質があったり。どれくらい関連があるかはまだ吟味中。
そして先ほど書きましたようにバッハの平均律で第1巻はフーガのみ嬰ニ短調で書かれてる・・・はずなのですが手持ちの楽譜はわざわざ変ホ短調に書き直してありました。(こういう版けっこうあるらしいですね。余計なお世話だと思います。上記「違い」を認識してからは)
このフーガも弾いたことはないんですが、楽譜面だけ見てみるとこれもまたちょっと音多くないか?という印象。これも後ほど検討。
そしてスクリャービンの練習曲(op.8-12)。スクリャービンはどっちかというと♯贔屓なんですよね(表現したい色彩もそうですし、若干躁気味な感覚もまたふさわしいというか)。
この曲の燃え上がるような興奮した感じはフラットで書いてしまうと印象として感じられないですし、フラットで書いてあるのを弾いても違和感がありそうで。
この曲の性質は変ホ短調よりも、例えば同じ♯短調の「嬰ハ短調」に近いものがある気がします。(24keysvirusでは「竜」。燃えさかる炎と冷酷さが同居する、と形容したと思います)
でも嬰ニ短調の方がずっと激高した感じがあって、落ち着きがなくて、変に明るい印象を受けるような。
自分が双極性障害を持っているのもあると思いますが、頭の中で警鐘が鳴るような、軽躁状態を連想するようななにかがある。
「嬰ニ短調」というこの調を通じてバッハが表現したかったものが何か、そしてそれにクラムが惹かれたのは何か、というのは確信が持てないのですが・・・
私はこの調から強く感じる不安さ、脆さ、切実さ、なんらかの狂気をこれからどう扱って、表現していけばいいのか・・・ということを考え始めてます。
そしてこの強烈な不安定さはいつか演奏するときのプログラムにおいてどう扱えばいいか、というのも改めて課題となりますね。この不安定さがうまく働かないようだったら抜群の安定さのトッカータホ短調が有力になるかなあ。
今日の一曲: ヨハン・セバスチャン・バッハ 平均律クラヴィーア曲集 第2巻第8番 嬰ニ短調
さんざん話したのと、まだいろいろ探っている途中なので説明は省きます。
先ほども書きましたがこの曲は前奏曲とフーガからなっていて、クラムがマクロコスモス第3巻「夏の夜の音楽」の第5楽章「星屑の音楽」の前半で引用されているのはこの内のフーガの一部です。
リンクした録音はグレン・グールドのもの。グールドの音楽の解釈はちょっと特殊で、あとたまに鼻歌歌ってるのが入ってたりもするので好みが分かれますが今日ちょろっと聴いた限りではそんなに変だということもなかったので、試聴もありますしこれにしてみました。
ちなみに同じく嬰ニ短調の曲として紹介しましたスクリャービンの練習曲op.8-12もまた名曲です。紹介は別の機会にしますがこちらも強くおすすめしますよ~
前のエントリーに拍手ありがとうございます~
今日はお出かけしてきました。
戦利品のアルケミーゴシックElementary Crux Angelicus(メシアンと海王星をイメージしますね!)をつけて、同じく戦利品のRekorderligサイダー(シードル)の洋梨味を飲みながら更新です。
そもそもお出かけの主な目的はなんでこのタイミングに?という買い物ではなくて、トゥーランガリラの彼とランチだったのです。
向こうはアカデミーでミーティングやらリハーサルやらあるなかで昼頃に数時間があく、という感じなので今回はサウスメルボルンあたりでまったりと。
国立アカデミーからほど近いChimmy'sというカフェでお昼。甘い物がおいしそうだったのですが今回は何も食べずにお昼なのでキッシュをいただきました。なんでもアカデミーで在学~伴奏のお仕事をしているうち(5年)に彼は相当通ってるところらしく、スタッフにすっかり顔知られてました(笑)
そしてやっぱりピアノの話に。
私としゃべると大抵20世紀~の音楽が圧倒的に多くなりますね(笑)
カフェではショスタコのことを結構話しましたね。前奏曲とフーガ周りを主に。調のこととか話したり、今弾いてるバッハの話、嬰ニ短調とかのキーの話だったり。
クラムの音楽の話で以前紹介しました「新神話主義」の話だったり、そこから派生して心理学の話だったり。なかなか色々説明できないで居ることが多いのですが、相手が割とそこは寛容で気長に優しく聞いてくれてるのが伝わってるのでフラストレーションをそんなに感じないな、と思うのですよね。
食べ終わった後は南下してAlbert Parkに。
MSACというスポーツセンターや、Orchestra Victoriaの本拠、公立の女子進学校MacRobertson's Schoolがあったり、ゴルフコースがあったり、そして4月にはF1レースの舞台ともなる公園で。真ん中にある湖には黒鳥などの水鳥が住んでいます。(それから病院にも近いので私もちょこちょこ行ったことあります)
そこをぐるっと回る歩道を途中までゆっくり歩いて、そして戻って(歩くには結構なサイズの湖なんですよ)。
もちろん歩いている間も音楽の話に。
こないだ演奏に戻ったら、と勧められたんだ、と言ったら後押しされちゃいましたねー。
私の演奏が聴きたい、演奏するなら行くよ、と言われるのはやっぱり嬉しいです。私もやっぱり彼と知り合ってしばらくするのですが私がどう弾くか(弾く、には解釈や感性なども含まれます)、どんな実力か、というのを知ってもらってないのはなんだか微妙な感じですし。実力では全然追いつけませんが、少なくとも同じグラウンドに立ちたい、ということですかね。
あとはメシアン周りで話がやっぱり弾みました(笑)
こないだ「鳥のカタログ全部人前で弾いたら」(もちろん今じゃないですが!)と言われた話から、数年前メシアンイヤーの時にトゥーランガリラの彼が国立アカデミーで他のピアニストと手分けして20のまなざしを弾いたときの話になり。
第12番(全能の言葉)を3人同時に弾いた(!)という話だったり、あれはハードロックだよね、という話だったり(そう言われるとまたそのうち弾きたくなるじゃないか!)。
あとは彼も共感覚保持者みたいです。私は「おそらく」なんですが、そういうところも似てるのかな、と(他にも今日の会話から「これも一緒か!」と似たところいくつか見つかってたり)。
そしてまたクラム。
Eine Kleine Mitternachtmusikを彼はちょうどこないだパースで演奏してきたのですが、愛着が湧いて好きになった、特殊奏法に関して敷居が低くなった、という話だったり(私も特殊奏法したいなー久しいですよ本当に)、あと「天体の力学」っていい曲だよなーとか。
メシアンもクラムももっと弾かれれば良いのに、と思うのは二人同じ気持ちで。なかなかね、難しいんですけどね。それを私たちも少しずつでも負ってかなくちゃいけないですし、喜んで負いたいですが。
そのパースでの演奏のコンサート(Perth Internaltional Arts Festivalのアメリカ音楽特集のコンサートだったそうで)が今日帰ってきたらABCラジオでやってたので夕飯作りながら少し聴きました。Eine Kleine~は抜粋で、コンサートのプログラムの中に分散されてるのですが彼が弾いてるうち第2楽章は聴けました。
なんでも中庭で屋外、星空の下で弾いたらしく、ものすごーくうらやましいです。
そのコンサートでは去年9.11同時多発テロの10周年として作曲され、こちらでもすでにクロノスカルテットが弾いたりしているスティーヴ・ライヒの「WTC 9/11」が演奏されていました。料理してる間で全部は聴けなかったのですが、実際の音声なども入ったパワフルな作品でした。むしろ初めて聞いたのが生だったらものすごくしんどかったかも!
弦楽器ってこういう恐怖や緊張などの感覚の表現がものすごーく正確で、リアルですね。心構えはある程度できたのでまた改めてちゃんと聴いてみたいです。
なんだかランチ食べて散歩して、とゆるやかながら自然にすっと時間が流れて、あっというまのようでもありました。
毎回言ってることですが、とにかく心地良くて自然なんですよ、彼と一緒にいて。
コミュニケーションのストレスを感じることもなければ変に意識しすぎることもなく。黙ってても話していても空気はそのまま自然に流れていて。
いつも会えるのは限られた時間だけどこうやってずっと居れるなあ、と私側では思うんです。
それはきっと話が合ったり、好みだったりおそらく感性のようなものの似たところがあったり、そういうこともあるんだろうけど、毎回言葉で表現しようとするとしどろもどろになってしまう、とにかく心地良い雰囲気があるんです。
向こうも私と居て楽しいようなので、それは素直に喜んで感謝していいんだよね、と。
Albert ParkはこれからF1に向けて騒がしくなると思いますがまたああいうゆったりしたところで一緒にゆったりしたいです。
彼も今年は作曲した作品の初演だったり、そして演奏の方も積極的にやるような予定らしいですが、声をかけたら会ってくれるみたいなのでお言葉に甘えようと思います(笑)
そして私もピアノに今まで以上に精を出さなきゃいけませんね。誰に対してもそうですが、彼には特にベストを聴いてもらいたい。(プログラムに食いつき良かったですしねーやっぱり好みが似てるっぽい)
がんばらなきゃ。自分のために、その他諸々のために。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「Eine Kleine Mitternachtmusic」 第7楽章 「Blues in the Night」
今日聴けなかったあと一つの楽章が確か第7楽章だったはず(昼聴いたことをちゃんと覚えてたら・・・)
タイトルにあるようにブルース風に書かれたこの曲。実はテンポが書いてあるところに「"At sixes and sevens"」と書かれています。
このフレーズの意味は「混乱して」という意味があるのですが、私はこの楽章をなんとなーく「酔っ払って意識がもうろうとした状態」と解釈してるんです。もう第7楽章、夜もだいぶふけてますからね(笑)
(ちなみにwikipedia英語版で調べてみたら中国では似たような意味で7と8を使った言葉があるそうです)
そして数字遊びが好きなクラム、もしや・・・と思って楽譜を見たら曲の中に6拍子の小節と7拍子の小節が混在している!
うまい!というよりも脱力しましたね(笑)これもう音楽における「オヤジギャグ」の類じゃないですか・・・
先ほどこの楽章を酔っ払った状態と解釈している、と書きましたが一応ぼんやりとはしていますが根拠はあります。
ブルース風に崩したリズムのけだるさだったり、以前弾いたこれまたブルース風のカバレフスキーの前奏曲(第23番、ヘ長調)のような半音で上下するラインの揺れる感じだったり、定まらない拍子だったり。
それからメロディーの描く形の不安定さがまたそれっぽくて。
で、それっぽく弾くと良い味がでるんですよね(笑)どんどん崩して、どんどんけだるげに動かして。そうするとぴったりなんですよ。(酩酊という状態にならない私が言うのもなんですが・・・今現在まだRekorderlig飲んでますが)
今日話してたのはEine Kleine~は弾く側にとっては特殊奏法が多すぎず、でも基本のテクニックはある程度カバーしてるから特殊奏法はこの曲集から入るのもありかもね、ということと。
それからこの曲で現れるちょっと変わった特殊奏法のことも話しました。なにやら片手でハーモニクスを押さえてその同じ手の親指で弦をこする、というものらしく。ハーモニクスはどの弦楽器でも特性上ぴったり正確な位置を押さえないと響かないのですが、その反面この「弦をこする」ときにハーモニクスがぴったり合うとすっごいいい音がするらしいです。この曲もピアノはアンプ付きなのですが、アンプはこういう大音量が望めない特殊効果の味方につきますね!
この曲集を通じて考えるときっと主人公は一人で、周りに幻影とかが立ち替わり入れ替わり現れる感じなのかな、と思われますが、この楽章を聴くとそれがはっきり分かりますね。間違いなく一人飲みの雰囲気です(爆)
ということで特に都会での寂しい夜の一人飲みのお供にこの楽章、そしてこの曲全体をおすすめします♪
ウィスキーですかね?ウィスキーのロックっぽくないですか?(笑)
今日はお出かけしてきました。
戦利品のアルケミーゴシックElementary Crux Angelicus(メシアンと海王星をイメージしますね!)をつけて、同じく戦利品のRekorderligサイダー(シードル)の洋梨味を飲みながら更新です。
そもそもお出かけの主な目的はなんでこのタイミングに?という買い物ではなくて、トゥーランガリラの彼とランチだったのです。
向こうはアカデミーでミーティングやらリハーサルやらあるなかで昼頃に数時間があく、という感じなので今回はサウスメルボルンあたりでまったりと。
国立アカデミーからほど近いChimmy'sというカフェでお昼。甘い物がおいしそうだったのですが今回は何も食べずにお昼なのでキッシュをいただきました。なんでもアカデミーで在学~伴奏のお仕事をしているうち(5年)に彼は相当通ってるところらしく、スタッフにすっかり顔知られてました(笑)
そしてやっぱりピアノの話に。
私としゃべると大抵20世紀~の音楽が圧倒的に多くなりますね(笑)
カフェではショスタコのことを結構話しましたね。前奏曲とフーガ周りを主に。調のこととか話したり、今弾いてるバッハの話、嬰ニ短調とかのキーの話だったり。
クラムの音楽の話で以前紹介しました「新神話主義」の話だったり、そこから派生して心理学の話だったり。なかなか色々説明できないで居ることが多いのですが、相手が割とそこは寛容で気長に優しく聞いてくれてるのが伝わってるのでフラストレーションをそんなに感じないな、と思うのですよね。
食べ終わった後は南下してAlbert Parkに。
MSACというスポーツセンターや、Orchestra Victoriaの本拠、公立の女子進学校MacRobertson's Schoolがあったり、ゴルフコースがあったり、そして4月にはF1レースの舞台ともなる公園で。真ん中にある湖には黒鳥などの水鳥が住んでいます。(それから病院にも近いので私もちょこちょこ行ったことあります)
そこをぐるっと回る歩道を途中までゆっくり歩いて、そして戻って(歩くには結構なサイズの湖なんですよ)。
もちろん歩いている間も音楽の話に。
こないだ演奏に戻ったら、と勧められたんだ、と言ったら後押しされちゃいましたねー。
私の演奏が聴きたい、演奏するなら行くよ、と言われるのはやっぱり嬉しいです。私もやっぱり彼と知り合ってしばらくするのですが私がどう弾くか(弾く、には解釈や感性なども含まれます)、どんな実力か、というのを知ってもらってないのはなんだか微妙な感じですし。実力では全然追いつけませんが、少なくとも同じグラウンドに立ちたい、ということですかね。
あとはメシアン周りで話がやっぱり弾みました(笑)
こないだ「鳥のカタログ全部人前で弾いたら」(もちろん今じゃないですが!)と言われた話から、数年前メシアンイヤーの時にトゥーランガリラの彼が国立アカデミーで他のピアニストと手分けして20のまなざしを弾いたときの話になり。
第12番(全能の言葉)を3人同時に弾いた(!)という話だったり、あれはハードロックだよね、という話だったり(そう言われるとまたそのうち弾きたくなるじゃないか!)。
あとは彼も共感覚保持者みたいです。私は「おそらく」なんですが、そういうところも似てるのかな、と(他にも今日の会話から「これも一緒か!」と似たところいくつか見つかってたり)。
そしてまたクラム。
Eine Kleine Mitternachtmusikを彼はちょうどこないだパースで演奏してきたのですが、愛着が湧いて好きになった、特殊奏法に関して敷居が低くなった、という話だったり(私も特殊奏法したいなー久しいですよ本当に)、あと「天体の力学」っていい曲だよなーとか。
メシアンもクラムももっと弾かれれば良いのに、と思うのは二人同じ気持ちで。なかなかね、難しいんですけどね。それを私たちも少しずつでも負ってかなくちゃいけないですし、喜んで負いたいですが。
そのパースでの演奏のコンサート(Perth Internaltional Arts Festivalのアメリカ音楽特集のコンサートだったそうで)が今日帰ってきたらABCラジオでやってたので夕飯作りながら少し聴きました。Eine Kleine~は抜粋で、コンサートのプログラムの中に分散されてるのですが彼が弾いてるうち第2楽章は聴けました。
なんでも中庭で屋外、星空の下で弾いたらしく、ものすごーくうらやましいです。
そのコンサートでは去年9.11同時多発テロの10周年として作曲され、こちらでもすでにクロノスカルテットが弾いたりしているスティーヴ・ライヒの「WTC 9/11」が演奏されていました。料理してる間で全部は聴けなかったのですが、実際の音声なども入ったパワフルな作品でした。むしろ初めて聞いたのが生だったらものすごくしんどかったかも!
弦楽器ってこういう恐怖や緊張などの感覚の表現がものすごーく正確で、リアルですね。心構えはある程度できたのでまた改めてちゃんと聴いてみたいです。
なんだかランチ食べて散歩して、とゆるやかながら自然にすっと時間が流れて、あっというまのようでもありました。
毎回言ってることですが、とにかく心地良くて自然なんですよ、彼と一緒にいて。
コミュニケーションのストレスを感じることもなければ変に意識しすぎることもなく。黙ってても話していても空気はそのまま自然に流れていて。
いつも会えるのは限られた時間だけどこうやってずっと居れるなあ、と私側では思うんです。
それはきっと話が合ったり、好みだったりおそらく感性のようなものの似たところがあったり、そういうこともあるんだろうけど、毎回言葉で表現しようとするとしどろもどろになってしまう、とにかく心地良い雰囲気があるんです。
向こうも私と居て楽しいようなので、それは素直に喜んで感謝していいんだよね、と。
Albert ParkはこれからF1に向けて騒がしくなると思いますがまたああいうゆったりしたところで一緒にゆったりしたいです。
彼も今年は作曲した作品の初演だったり、そして演奏の方も積極的にやるような予定らしいですが、声をかけたら会ってくれるみたいなのでお言葉に甘えようと思います(笑)
そして私もピアノに今まで以上に精を出さなきゃいけませんね。誰に対してもそうですが、彼には特にベストを聴いてもらいたい。(プログラムに食いつき良かったですしねーやっぱり好みが似てるっぽい)
がんばらなきゃ。自分のために、その他諸々のために。
今日の一曲: ジョージ・クラム 「Eine Kleine Mitternachtmusic」 第7楽章 「Blues in the Night」
今日聴けなかったあと一つの楽章が確か第7楽章だったはず(昼聴いたことをちゃんと覚えてたら・・・)
タイトルにあるようにブルース風に書かれたこの曲。実はテンポが書いてあるところに「"At sixes and sevens"」と書かれています。
このフレーズの意味は「混乱して」という意味があるのですが、私はこの楽章をなんとなーく「酔っ払って意識がもうろうとした状態」と解釈してるんです。もう第7楽章、夜もだいぶふけてますからね(笑)
(ちなみにwikipedia英語版で調べてみたら中国では似たような意味で7と8を使った言葉があるそうです)
そして数字遊びが好きなクラム、もしや・・・と思って楽譜を見たら曲の中に6拍子の小節と7拍子の小節が混在している!
うまい!というよりも脱力しましたね(笑)これもう音楽における「オヤジギャグ」の類じゃないですか・・・
先ほどこの楽章を酔っ払った状態と解釈している、と書きましたが一応ぼんやりとはしていますが根拠はあります。
ブルース風に崩したリズムのけだるさだったり、以前弾いたこれまたブルース風のカバレフスキーの前奏曲(第23番、ヘ長調)のような半音で上下するラインの揺れる感じだったり、定まらない拍子だったり。
それからメロディーの描く形の不安定さがまたそれっぽくて。
で、それっぽく弾くと良い味がでるんですよね(笑)どんどん崩して、どんどんけだるげに動かして。そうするとぴったりなんですよ。(酩酊という状態にならない私が言うのもなんですが・・・今現在まだRekorderlig飲んでますが)
今日話してたのはEine Kleine~は弾く側にとっては特殊奏法が多すぎず、でも基本のテクニックはある程度カバーしてるから特殊奏法はこの曲集から入るのもありかもね、ということと。
それからこの曲で現れるちょっと変わった特殊奏法のことも話しました。なにやら片手でハーモニクスを押さえてその同じ手の親指で弦をこする、というものらしく。ハーモニクスはどの弦楽器でも特性上ぴったり正確な位置を押さえないと響かないのですが、その反面この「弦をこする」ときにハーモニクスがぴったり合うとすっごいいい音がするらしいです。この曲もピアノはアンプ付きなのですが、アンプはこういう大音量が望めない特殊効果の味方につきますね!
この曲集を通じて考えるときっと主人公は一人で、周りに幻影とかが立ち替わり入れ替わり現れる感じなのかな、と思われますが、この楽章を聴くとそれがはっきり分かりますね。間違いなく一人飲みの雰囲気です(爆)
ということで特に都会での寂しい夜の一人飲みのお供にこの楽章、そしてこの曲全体をおすすめします♪
ウィスキーですかね?ウィスキーのロックっぽくないですか?(笑)
前回のエントリーに拍手どうもです!
最近ちょっとだんだん練習レパートリー改編期に入りつつあり。
そのなかでもプーランクの即興曲第3番はものすごく壁にぶち当たった感じでものすごく悔しい感じでギブアップ。
このころころ変わる気質に頭がついてけず集中力が散漫になってしまうのはもっとプーランクを弾き重ねないと慣れないものなのか・・・
嫌いになった訳じゃないのでまたの機会に再チャレンジしたいです。
そしてその他諸々ある中、ふと気づいてみれば去年の春頃?に始めたプロコフィエフのピアノソナタ第2番も最終楽章。1番好きな楽章ですがかなりトリッキーなタランテラ。
目標としては毒いっぱいパワフルに、毒を楽しんで弾けるようになれれば良いかな。独特のユーモアが鋭く突き刺さるのでちょろっとどこかで弾けたらいいな、とか思ってるんですが。
でもプロコフィエフの音楽って私にとっては習得するのも弾くのも聴くのも好きながら人前で弾くとなるとどうも気が引けてしまう感じがあって。
不協和音的なところもありながら曲の組み立て、音の連なりはものすごくロジカルなので問題は暗譜ではないんですよね。
きっと一番キーとなってるのは「自分はプロコフィエフを弾くときに余裕を感じたことがほとんどない」ということかと。
ピアノにおいての技巧のレベル(プロコフィエフの技巧はまたちょっと特殊なとこありますが)もそうですし、ちょっと体力に関するところもあったりするのですが、それだけでなく弾いてて色々余裕を感じられない。
楽しいんだけどどこか心地良さを感じることができない。(そもそも心地良さというのとはちょっと違うのかも)
練習してるのと演奏してるのでは緊張なども相まって身体的に、肉体的に余裕がいつもよりなくなるものなのですが、プロコフィエフの音楽はそこのところが厳しくなりやすいのかもしれませんね。
プロコフィエフは同じ時代・国で生きた、そしてそれにより似たようなテイストを持った音楽を書いたショスタコーヴィチを比較対象にされることが多いですね。なので今回ここでもショスタコと比べるようにしてちょっと話ます。
どちらもソヴィエトの偉大な作曲家で、交響曲などの大ジャンルからもっと小規模の曲までいろいろな音楽を書いています。
この2人の作曲家の違いを説明すると、「ショスタコはうつに似ていて、プロコフィエフは強迫性障害に似ている」というところですかね。つまりショスタコは(ロジカルな組み立てはあるものの)ものすごく感情面の表れが強くて、プロコフィエフは強迫行動を思わせるような執拗さ、そしてものすごい完璧さ、理論の裏付けなどが特徴的。別の言い方だと「ショスタコーヴィチの音楽はこちらをまっすぐ見てくるのが怖いけれど、プロコフィエフはこっちを見もせずにのめりこんでるのが怖い」。
↑は全部あくまでも私の印象・考え・解釈ですがね。
ピアノにおいての立ち位置を考えるとショスタコよりはプロコフィエフの方がよく弾かれてますし、メジャーな曲を書いている印象はありますね。
9つのソナタだったり5つの協奏曲、あとは練習曲など小さな曲まで。ショスタコは24の前奏曲とフーガがあるけどソナタは2つだけだったり、そんなにがっつりピアノ!という感じではないというか。
私はまだ日本にいてピアノを習ってた頃使ってた曲の教則本、というか曲集がソヴィエト音楽中心で、だからショスタコとかプロコフィエフの音楽もちょこちょこ弾いてて。
プロコフィエフの「タランテラ」はそんな中でも印象に残っています。当時からタランテラ好き・ニ短調好きだったので(笑)
あと我が家にPerformaなんとか、というマックのパソコンが来たときについてきた「ピーターと狼」のインタラクティブプログラムでも親しんでましたね。ただピーターと狼がプロコフィエフの作曲だとは当時あんまり思ってなかったかも。
でもそこからプロコフィエフとの接点ってのは結構飛び飛びだったりするような・・・(少なくともショスタコだともっと持続的に愛して、持続的に濃くつきあってる感がありますね)
こっちに来てメル響のコンサートに行ってプロコフィエフの交響曲第3番「炎の天使」を聴いたのは強烈に印象に残ってます。ストーリーのおもしろさ、作曲法とエフェクトの興味深さ、何もかもががつんとくる曲で。
ちなみにあらすじはこちら。このオペラが元となった交響曲で、特に以前紹介した第3楽章のスケルツォなどリアルを超越したようなビビッドである意味えぐい表現に満ちています。
ユースオケだとプロコフィエフは「キージェ中尉」とピアノ協奏曲第2番、そして「ロミオとジュリエット」をやったのみかな。(もっと最近だともちょっとがんがんいっぱい弾いてたのかもしれないけど・・・)
ピアノ協奏曲第2番はこのブログで何回か話に出しているように自分にとってものすごく特別な曲。
本当は交響曲とかも弾きたかったんだけどなあ。第5番は生で聴いてますが。
で、ピアノになると大学以降はop.12の小品のうち5つ、悪魔的暗示、そして今やっているピアノソナタ第2番。
少なさはプロコフィエフが割と大きめの手のために曲を書くこともちょこちょこある、ということも関係していますが・・・それでもなんだか「あれ、これだけ?」な感じですねえ。
悪魔的暗示は大学の最終リサイタル試験で弾いてます。小品もちょっと弾いてるのかな。
にしても何となく経験不足なのかもしれません、演奏に関しては。
先ほど書きましたようにプロコフィエフはピアノのために素晴らしいレパートリーをどんと残してて。
例えばピアノソナタの第6,7,8番は第二次世界大戦の頃に書かれたため「戦争ソナタ」と呼ばれています。大学でも6,7あたり弾いてる人何人かいましたね。
私は戦争ソナタはもうちょっとピアノの技量を磨いて、あと歳を重ねて、30過ぎてからかなあ(笑)
今第2番やってるのがものすごく性に合っててもっと磨いて自分の物にしてみたいですし、同時に第3番(単一楽章)もチャレンジしてみたい。
第6,7番あたりも好きだけれど、まずそこを堅めてもっと好きになってからかな。
そしてできればピアノソナタ、ピアノ協奏曲、できれば小品もリヒテルの演奏で録音をそろえたいですね。
彼の演奏のパワフルさだったり、がっつりピアニズム(がっつり=王道といった意味であり「がっつりしたスタイル」という意味でもあり)、そしてソヴィエトなスタイルとプロコフィエフのトリッキーなテクニックをしっかりものにしてしまう技巧はやっぱりすごい。プロコフィエフはいつだって彼の演奏で聴きたい。
私は女性で体も小さくてソヴィエトに生きることはなかったけれどリヒテルの演奏から学んで身につけたいものいっぱいで。
ショスタコについて書いたとき話しましたが私はソヴィエトとその歴史にものすごくい思い入れがあって、ピアノを弾くにしてもソヴィエトらしくソヴィエト音楽を弾きたい、再現しながら自分の思いの丈を表現したい、と思っています。
そのためにはやっぱりピアノソナタ第2番、悪魔的暗示、それから小品いくつかをしっかり基盤として固めなくちゃいけないかな。パワーと技巧とソヴィエトテイストと、そしてもう少し余裕。
できれば将来的にソナタ第2番は人前でやったほうがいいし、やりたいですし、やれるようになりたい。
またショスタコと比べちゃってあれですが、これまでショスタコと積み重ねたものに負けないくらいの心持ちでプロコフィエフの音楽ともつきあっていきたいですね。
今日の一曲 セルゲイ・プロコフィエフ ピアノソナタ第2番 第4楽章
ブラームスの得意がワルツと子守歌ならプロコフィエフの得意はマーチとタランテラ(単純化しすぎ?)。
一時代前のチャイコフスキーの頃から寒いロシアの作曲家はイタリアの様々な物にあこがれていたようで、その中でも「タランテラ」という舞曲のフォーマットは主にロシア界隈で作曲された物が有名です。
それはソヴィエト時代も続いて、割と「最終楽章がロンドでタランテラ風」というのはちょこちょこ見られるような気がします。その中でもやっぱりこの曲の存在感はしっかりありますねー。
小さい頃弾いたタランテラと(調も一緒ですが)色々似たところありますよ。
プロコフィエフの音楽全般における最大の、そして他ではなかなか見られない特徴、というのがメロディーにおいてやたらと音が飛ぶ、ということ。歌うメロディーだと普通は1オクターブくらいに音域を基本押さえなさい、と言われることもありますが、プロコフィエフのメロディーは1オクターブ音が飛んで、そこからまた同じくらい音が飛んで、などかなりアクロバットな物が多いです。子の曲でも思うんですが弾いてて一苦労。
なにかどこか狂ったような壊れたような、悪夢のサーカスのようなこの楽章のハイライトは中間部。
ものすごーくゆがんだ形でこの楽章で出てきたメロディーの断片が立ち替わり入れ替わり現れる中、執拗に繰り返される「ドのシャープ」。
元々音階において7番目の音は8番目(=1番目)の音、主音に行きたがる引力みたいのがあって。
ドレミファソラシド、だとシ→ドの引力が強いのですが、この曲のニ短調だとド♯→レに行きたがるんですね。
さらにド♯はこのセクションのハーモニーに含まれてない事が多く、突然入って来るとびっくり、だけじゃなく不協和音的な不快感を与えるわけです。
他が全部めまぐるしく狂っててどこにいくか分からないところにこれ(ド♯)で、とにかく聴衆を「早くここから出してくれ!」な状態にしたところでド♯→レの流れ+最初のテーマに戻るところの満足感やプロコフィエフの音楽心理学の勝利ですよ(笑)
とにかく聴いてみてください。プロコフィエフの先ほど書きました「強迫性障害的な」感じが垣間見れるかと思います。
そうするとやっぱり私としてはこの「ド♯」繰り返しの部分がものすごく狂ってる、ド♯がものすごくぶしつけに弾かれてる演奏が好ましい、ということで(笑)
リンクしたCDは私が前購入したやつですが、曲のラインアップが興味深いこと、リヒテルの20世紀音楽の演奏が非常に面白いこと、そして生演奏の粗さもあるながら(それはそれで面白い)この曲の勢い、パワーに圧倒される物凄い録音です。
鬼気迫る恐怖感&毒々しさがもうたまらない!
(こんな風の10分の1でも弾けたらなあ・・・と思うんだけどなあ。)
最近ちょっとだんだん練習レパートリー改編期に入りつつあり。
そのなかでもプーランクの即興曲第3番はものすごく壁にぶち当たった感じでものすごく悔しい感じでギブアップ。
このころころ変わる気質に頭がついてけず集中力が散漫になってしまうのはもっとプーランクを弾き重ねないと慣れないものなのか・・・
嫌いになった訳じゃないのでまたの機会に再チャレンジしたいです。
そしてその他諸々ある中、ふと気づいてみれば去年の春頃?に始めたプロコフィエフのピアノソナタ第2番も最終楽章。1番好きな楽章ですがかなりトリッキーなタランテラ。
目標としては毒いっぱいパワフルに、毒を楽しんで弾けるようになれれば良いかな。独特のユーモアが鋭く突き刺さるのでちょろっとどこかで弾けたらいいな、とか思ってるんですが。
でもプロコフィエフの音楽って私にとっては習得するのも弾くのも聴くのも好きながら人前で弾くとなるとどうも気が引けてしまう感じがあって。
不協和音的なところもありながら曲の組み立て、音の連なりはものすごくロジカルなので問題は暗譜ではないんですよね。
きっと一番キーとなってるのは「自分はプロコフィエフを弾くときに余裕を感じたことがほとんどない」ということかと。
ピアノにおいての技巧のレベル(プロコフィエフの技巧はまたちょっと特殊なとこありますが)もそうですし、ちょっと体力に関するところもあったりするのですが、それだけでなく弾いてて色々余裕を感じられない。
楽しいんだけどどこか心地良さを感じることができない。(そもそも心地良さというのとはちょっと違うのかも)
練習してるのと演奏してるのでは緊張なども相まって身体的に、肉体的に余裕がいつもよりなくなるものなのですが、プロコフィエフの音楽はそこのところが厳しくなりやすいのかもしれませんね。
プロコフィエフは同じ時代・国で生きた、そしてそれにより似たようなテイストを持った音楽を書いたショスタコーヴィチを比較対象にされることが多いですね。なので今回ここでもショスタコと比べるようにしてちょっと話ます。
どちらもソヴィエトの偉大な作曲家で、交響曲などの大ジャンルからもっと小規模の曲までいろいろな音楽を書いています。
この2人の作曲家の違いを説明すると、「ショスタコはうつに似ていて、プロコフィエフは強迫性障害に似ている」というところですかね。つまりショスタコは(ロジカルな組み立てはあるものの)ものすごく感情面の表れが強くて、プロコフィエフは強迫行動を思わせるような執拗さ、そしてものすごい完璧さ、理論の裏付けなどが特徴的。別の言い方だと「ショスタコーヴィチの音楽はこちらをまっすぐ見てくるのが怖いけれど、プロコフィエフはこっちを見もせずにのめりこんでるのが怖い」。
↑は全部あくまでも私の印象・考え・解釈ですがね。
ピアノにおいての立ち位置を考えるとショスタコよりはプロコフィエフの方がよく弾かれてますし、メジャーな曲を書いている印象はありますね。
9つのソナタだったり5つの協奏曲、あとは練習曲など小さな曲まで。ショスタコは24の前奏曲とフーガがあるけどソナタは2つだけだったり、そんなにがっつりピアノ!という感じではないというか。
私はまだ日本にいてピアノを習ってた頃使ってた曲の教則本、というか曲集がソヴィエト音楽中心で、だからショスタコとかプロコフィエフの音楽もちょこちょこ弾いてて。
プロコフィエフの「タランテラ」はそんな中でも印象に残っています。当時からタランテラ好き・ニ短調好きだったので(笑)
あと我が家にPerformaなんとか、というマックのパソコンが来たときについてきた「ピーターと狼」のインタラクティブプログラムでも親しんでましたね。ただピーターと狼がプロコフィエフの作曲だとは当時あんまり思ってなかったかも。
でもそこからプロコフィエフとの接点ってのは結構飛び飛びだったりするような・・・(少なくともショスタコだともっと持続的に愛して、持続的に濃くつきあってる感がありますね)
こっちに来てメル響のコンサートに行ってプロコフィエフの交響曲第3番「炎の天使」を聴いたのは強烈に印象に残ってます。ストーリーのおもしろさ、作曲法とエフェクトの興味深さ、何もかもががつんとくる曲で。
ちなみにあらすじはこちら。このオペラが元となった交響曲で、特に以前紹介した第3楽章のスケルツォなどリアルを超越したようなビビッドである意味えぐい表現に満ちています。
ユースオケだとプロコフィエフは「キージェ中尉」とピアノ協奏曲第2番、そして「ロミオとジュリエット」をやったのみかな。(もっと最近だともちょっとがんがんいっぱい弾いてたのかもしれないけど・・・)
ピアノ協奏曲第2番はこのブログで何回か話に出しているように自分にとってものすごく特別な曲。
本当は交響曲とかも弾きたかったんだけどなあ。第5番は生で聴いてますが。
で、ピアノになると大学以降はop.12の小品のうち5つ、悪魔的暗示、そして今やっているピアノソナタ第2番。
少なさはプロコフィエフが割と大きめの手のために曲を書くこともちょこちょこある、ということも関係していますが・・・それでもなんだか「あれ、これだけ?」な感じですねえ。
悪魔的暗示は大学の最終リサイタル試験で弾いてます。小品もちょっと弾いてるのかな。
にしても何となく経験不足なのかもしれません、演奏に関しては。
先ほど書きましたようにプロコフィエフはピアノのために素晴らしいレパートリーをどんと残してて。
例えばピアノソナタの第6,7,8番は第二次世界大戦の頃に書かれたため「戦争ソナタ」と呼ばれています。大学でも6,7あたり弾いてる人何人かいましたね。
私は戦争ソナタはもうちょっとピアノの技量を磨いて、あと歳を重ねて、30過ぎてからかなあ(笑)
今第2番やってるのがものすごく性に合っててもっと磨いて自分の物にしてみたいですし、同時に第3番(単一楽章)もチャレンジしてみたい。
第6,7番あたりも好きだけれど、まずそこを堅めてもっと好きになってからかな。
そしてできればピアノソナタ、ピアノ協奏曲、できれば小品もリヒテルの演奏で録音をそろえたいですね。
彼の演奏のパワフルさだったり、がっつりピアニズム(がっつり=王道といった意味であり「がっつりしたスタイル」という意味でもあり)、そしてソヴィエトなスタイルとプロコフィエフのトリッキーなテクニックをしっかりものにしてしまう技巧はやっぱりすごい。プロコフィエフはいつだって彼の演奏で聴きたい。
私は女性で体も小さくてソヴィエトに生きることはなかったけれどリヒテルの演奏から学んで身につけたいものいっぱいで。
ショスタコについて書いたとき話しましたが私はソヴィエトとその歴史にものすごくい思い入れがあって、ピアノを弾くにしてもソヴィエトらしくソヴィエト音楽を弾きたい、再現しながら自分の思いの丈を表現したい、と思っています。
そのためにはやっぱりピアノソナタ第2番、悪魔的暗示、それから小品いくつかをしっかり基盤として固めなくちゃいけないかな。パワーと技巧とソヴィエトテイストと、そしてもう少し余裕。
できれば将来的にソナタ第2番は人前でやったほうがいいし、やりたいですし、やれるようになりたい。
またショスタコと比べちゃってあれですが、これまでショスタコと積み重ねたものに負けないくらいの心持ちでプロコフィエフの音楽ともつきあっていきたいですね。
今日の一曲 セルゲイ・プロコフィエフ ピアノソナタ第2番 第4楽章
ブラームスの得意がワルツと子守歌ならプロコフィエフの得意はマーチとタランテラ(単純化しすぎ?)。
一時代前のチャイコフスキーの頃から寒いロシアの作曲家はイタリアの様々な物にあこがれていたようで、その中でも「タランテラ」という舞曲のフォーマットは主にロシア界隈で作曲された物が有名です。
それはソヴィエト時代も続いて、割と「最終楽章がロンドでタランテラ風」というのはちょこちょこ見られるような気がします。その中でもやっぱりこの曲の存在感はしっかりありますねー。
小さい頃弾いたタランテラと(調も一緒ですが)色々似たところありますよ。
プロコフィエフの音楽全般における最大の、そして他ではなかなか見られない特徴、というのがメロディーにおいてやたらと音が飛ぶ、ということ。歌うメロディーだと普通は1オクターブくらいに音域を基本押さえなさい、と言われることもありますが、プロコフィエフのメロディーは1オクターブ音が飛んで、そこからまた同じくらい音が飛んで、などかなりアクロバットな物が多いです。子の曲でも思うんですが弾いてて一苦労。
なにかどこか狂ったような壊れたような、悪夢のサーカスのようなこの楽章のハイライトは中間部。
ものすごーくゆがんだ形でこの楽章で出てきたメロディーの断片が立ち替わり入れ替わり現れる中、執拗に繰り返される「ドのシャープ」。
元々音階において7番目の音は8番目(=1番目)の音、主音に行きたがる引力みたいのがあって。
ドレミファソラシド、だとシ→ドの引力が強いのですが、この曲のニ短調だとド♯→レに行きたがるんですね。
さらにド♯はこのセクションのハーモニーに含まれてない事が多く、突然入って来るとびっくり、だけじゃなく不協和音的な不快感を与えるわけです。
他が全部めまぐるしく狂っててどこにいくか分からないところにこれ(ド♯)で、とにかく聴衆を「早くここから出してくれ!」な状態にしたところでド♯→レの流れ+最初のテーマに戻るところの満足感やプロコフィエフの音楽心理学の勝利ですよ(笑)
とにかく聴いてみてください。プロコフィエフの先ほど書きました「強迫性障害的な」感じが垣間見れるかと思います。
そうするとやっぱり私としてはこの「ド♯」繰り返しの部分がものすごく狂ってる、ド♯がものすごくぶしつけに弾かれてる演奏が好ましい、ということで(笑)
リンクしたCDは私が前購入したやつですが、曲のラインアップが興味深いこと、リヒテルの20世紀音楽の演奏が非常に面白いこと、そして生演奏の粗さもあるながら(それはそれで面白い)この曲の勢い、パワーに圧倒される物凄い録音です。
鬼気迫る恐怖感&毒々しさがもうたまらない!
(こんな風の10分の1でも弾けたらなあ・・・と思うんだけどなあ。)
