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さてさて諸々の事情の話を書きたいという時間です。
前回のエントリーが木曜日に行ったコンサートの話だったのですがその日の朝ちょっと困ったことが起こりまして。
この日朝7時45分、自然覚醒してちょっとしてからのまさかのパニック発作になりかけ。
ベッドに寝たまま心臓の鼓動がいきなりどきどきしてからの思考がcatastrophizingからのまた身体感覚の急激な変化とさらなる思考のパニックまで来たところで「これはパニック発作になる!」と気づいてから思考にものすごいブレーキかけて深呼吸して(仰向けで良かったかも?)本格的になる前になんとか食い止めてなんとか二度寝したという経緯。
こないだの双極性障害についての質問票でも書いたのですがこれまで2回、もう10年前にパニック発作を起こした経験があります。突発的で以来調子が良くなっても悪くなっても再発してないので一時的な、メインの持病とはあんまり関係ないものだったのかなあ。もちろん知識としてもどういう事が起こるかは知っていますが実際の感覚をかなり覚えてた(ので早く気づけた)ことに自分でもびっくりです。
その時とは違って今回は未然に(どこからどこが未然なんだろうってのがよくわかりませんが)食い止めたのですがそれでも後まで影響ありました。心の調子が階段を2,3段踏み外したくらいの感覚。気分の落ち込みや全体的な弱気だけでなく体の感覚がしばらくおかしかったです。咳をしたくらいでまたパニック反応が起こりそうになるので色んな刺激に対して意識的に「大丈夫大丈夫何でもない」的なことを言い聞かせて。刺激に対するすべての反応の経路がパニックに通じてしまうのを繋ぎ直すみたいなほんとめんどくさい作業でした。
幸いにもそこまで急ぎじゃない仕事が手元にあったので刺激弱めの音量で刺激弱めの音楽を聴きながら集中力がないなりにのろのろ仕事を進めることで時間が過ごせて良かったです。少なくとも自分の場合こういうときに何もしないってのは悪手だと思いました。まずは何か無理なくできることがないか探してみて、だめだったら何もしないで完全に休むという方針。あと何かすることに決めても普段のペースから数段落とすことに気をつける。さらにそれに限らず小さいことでも「できた」ということを大事にする。
まあ集中力ないついでなので仕事しながらネットでめぼしいメンタルヘルス団体のサイトをあさってパニック発作など不安方面を後で復習するためにリソースを探してたんですけどなかなかナビゲートが難しいウェブサイトが多くて地味に困る。リソースを求めるのは判断力とか分析力が落ちてる人たちだからぱぱっとシンプルに探せるフォーマットがいいなあと思ったり。あと外部リンクのリンク切れとかは論外ですね。
最近だとfacebookとかSNSを介したサポートやリソース共有がメインになってるところもあるのですが色んな人が色んな性質の書き込みがあって、特に個人体験やなんかの話は情報を探してる時には邪魔にもなったり。Twitterだとさらに文字制限やサムネ表示フォーマットなんかもあってぱっと見という部分で難しい。
で、結局は昔入院したときの入院中プログラムでもらったプリントを引っ張り出したのですがやっぱりこれが一番ですね。特にセルフケアや自分で思考のゆがみを直したり「退院後また病状が落ちたら」というところに焦点を当てたワークシートがあったりほんと助かります。もちろん医療としては最初の入院からもうすぐ20年、最後の入院から10年経って色々進歩とともに変わってることもあると思われますが今も通じる・使えるスキルやなんかもたくさんあります。
今回はメンタルの調子が落ちやすい時期とはいえ「普通の不調」の範囲外の、予期してなかったカテゴリの不調が起きたのですが本格的なパニック発作になる前になんとかできたこと(本格的になってたらリカバリにどれだけ時間とエネルギーが必要だったんだろう・・・)、それから仕事にしろ復習にしろ「動く」方向に自分の思考と行動を持ってけたのがよかったと思います。
おかげで同日のコンサートも昨日のサッカー観戦も(どちらも着くまでは弱気が残ってましたが)支障なく行けて楽しめて。ついでに仕事も納期通り+余裕ありで納品できてよかったー。
そして復習としてプリントは読むだけでなくそのうちまったりノートにまとめたいと思ってます。その方が入ってきますしプリント他色々資料が入ったファイルを掘り起こさなくて済みますしなにより万年筆で手書きすることが自分にとってリラクゼーションになるみたいなので。手書きもネタがないとできないのでこういう事態になった時に書けるものは頭の隅においておきたいところです。
今日の一曲はお休み。まだ書きたいトピックがあったことに気づいたのでそのときにゆっくり。
前回のエントリーが木曜日に行ったコンサートの話だったのですがその日の朝ちょっと困ったことが起こりまして。
この日朝7時45分、自然覚醒してちょっとしてからのまさかのパニック発作になりかけ。
ベッドに寝たまま心臓の鼓動がいきなりどきどきしてからの思考がcatastrophizingからのまた身体感覚の急激な変化とさらなる思考のパニックまで来たところで「これはパニック発作になる!」と気づいてから思考にものすごいブレーキかけて深呼吸して(仰向けで良かったかも?)本格的になる前になんとか食い止めてなんとか二度寝したという経緯。
こないだの双極性障害についての質問票でも書いたのですがこれまで2回、もう10年前にパニック発作を起こした経験があります。突発的で以来調子が良くなっても悪くなっても再発してないので一時的な、メインの持病とはあんまり関係ないものだったのかなあ。もちろん知識としてもどういう事が起こるかは知っていますが実際の感覚をかなり覚えてた(ので早く気づけた)ことに自分でもびっくりです。
その時とは違って今回は未然に(どこからどこが未然なんだろうってのがよくわかりませんが)食い止めたのですがそれでも後まで影響ありました。心の調子が階段を2,3段踏み外したくらいの感覚。気分の落ち込みや全体的な弱気だけでなく体の感覚がしばらくおかしかったです。咳をしたくらいでまたパニック反応が起こりそうになるので色んな刺激に対して意識的に「大丈夫大丈夫何でもない」的なことを言い聞かせて。刺激に対するすべての反応の経路がパニックに通じてしまうのを繋ぎ直すみたいなほんとめんどくさい作業でした。
幸いにもそこまで急ぎじゃない仕事が手元にあったので刺激弱めの音量で刺激弱めの音楽を聴きながら集中力がないなりにのろのろ仕事を進めることで時間が過ごせて良かったです。少なくとも自分の場合こういうときに何もしないってのは悪手だと思いました。まずは何か無理なくできることがないか探してみて、だめだったら何もしないで完全に休むという方針。あと何かすることに決めても普段のペースから数段落とすことに気をつける。さらにそれに限らず小さいことでも「できた」ということを大事にする。
まあ集中力ないついでなので仕事しながらネットでめぼしいメンタルヘルス団体のサイトをあさってパニック発作など不安方面を後で復習するためにリソースを探してたんですけどなかなかナビゲートが難しいウェブサイトが多くて地味に困る。リソースを求めるのは判断力とか分析力が落ちてる人たちだからぱぱっとシンプルに探せるフォーマットがいいなあと思ったり。あと外部リンクのリンク切れとかは論外ですね。
最近だとfacebookとかSNSを介したサポートやリソース共有がメインになってるところもあるのですが色んな人が色んな性質の書き込みがあって、特に個人体験やなんかの話は情報を探してる時には邪魔にもなったり。Twitterだとさらに文字制限やサムネ表示フォーマットなんかもあってぱっと見という部分で難しい。
で、結局は昔入院したときの入院中プログラムでもらったプリントを引っ張り出したのですがやっぱりこれが一番ですね。特にセルフケアや自分で思考のゆがみを直したり「退院後また病状が落ちたら」というところに焦点を当てたワークシートがあったりほんと助かります。もちろん医療としては最初の入院からもうすぐ20年、最後の入院から10年経って色々進歩とともに変わってることもあると思われますが今も通じる・使えるスキルやなんかもたくさんあります。
今回はメンタルの調子が落ちやすい時期とはいえ「普通の不調」の範囲外の、予期してなかったカテゴリの不調が起きたのですが本格的なパニック発作になる前になんとかできたこと(本格的になってたらリカバリにどれだけ時間とエネルギーが必要だったんだろう・・・)、それから仕事にしろ復習にしろ「動く」方向に自分の思考と行動を持ってけたのがよかったと思います。
おかげで同日のコンサートも昨日のサッカー観戦も(どちらも着くまでは弱気が残ってましたが)支障なく行けて楽しめて。ついでに仕事も納期通り+余裕ありで納品できてよかったー。
そして復習としてプリントは読むだけでなくそのうちまったりノートにまとめたいと思ってます。その方が入ってきますしプリント他色々資料が入ったファイルを掘り起こさなくて済みますしなにより万年筆で手書きすることが自分にとってリラクゼーションになるみたいなので。手書きもネタがないとできないのでこういう事態になった時に書けるものは頭の隅においておきたいところです。
今日の一曲はお休み。まだ書きたいトピックがあったことに気づいたのでそのときにゆっくり。
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ここ数日でちょっとがたがたしたことがあったのですがそちらはカテゴリ「精神関係」で改めて書きたいのでまた別の日に。明日は試合に行くのでその後になりそう。こういうことはなるべくフレッシュなうちに書きたいのですがしょうがない。
さて先日はそんながたがたの中で友人のリサイタルに行って来ました。メルボルン大学で博士号を終えた彼が博士号のテーマに、そしてピアノにおける一種のライフワーク的なものとして(でいいんだよね)弾いていたリストの「巡礼の年:第2年(イタリア)」をまるっと全部聴けるコンサート。一つ一つで、またはいくつか組み合わせて弾いて十分面白い&成り立つ曲が結構あるのであんまり全曲演奏って聴かない気がします。私も第2年今弾いてますが全部は弾かないなあ。なので色々貴重な機会でした。
そして博士号のプロジェクトの一部として録音したこの第2年(+α)のCDも発売してました。もちろん買いましたよー。
Liszt's Italian Pilgrimage
ピアノ:Tristan Lee
フランツ・リスト 巡礼の年:第2年(イタリア)
婚礼
物思いに沈む人
サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ
ペトラルカのソネット第47、104、123番
ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲
リスト!イタリア!というよりも今回の演奏の印象はそれぞれの曲、曲集全体としての音楽だけでなくそのインスピレーションや題材になった作品にも思いを馳せられるような何重の層にもなっている芸術作品の集まりの素晴らしさ。もちろん音楽聴いてんですし芸術なのは当たり前ですが音楽もありながら詩もありながら彫刻もありながら絵も有りながら、みたいなテレビでしか見たことのないヨーロッパの美術館みたいな感覚でした。
特に演奏が好きだったのは婚礼、3つめのソネット、そしてダンテ・ソナタかなあ。婚礼に関しては単曲でもう何回も聴いてるしそれ以上に弾いてるはずなのでアットホーム感が心地良い。ダンテ・ソナタはあんな難しいあんな大曲を全体像からディテールまでしっかりコントロールしてどこからみても納得の行くパワフルで鬼気迫る(そして繊細なところは繊細な)演奏で聴けてよかったです。彼の演奏がこの曲に関しては自分の中でのスタンダードであり理想像。
そういえば今回聴衆側にいた別の友人がリストの巡礼の年について面白いことを言ってました。なんでも第2年、第3年は音楽の内容とか表現に対して実際の音が少ない、と。確かに私も楽譜を買ったとき違和感があったんですよね。「あれ、こんなのっぺりとした楽譜でいいの?」みたいな。第1年だったりリストの他の(もっと早期の)作品だと音いっぱいだからリストが晩年に向けて身につけた表現法というか作風というか魔法なのかもしれませんね。
自分にとっては(印象派方面から来てるから自然と、といえばいいのかな)第3年がメインディッシュな感じで取り組んでますがTristanは第3年は弾いたり演奏したりするのかなあ。また色々違って面白いのでどういうアプローチするか気になります。でも博士号は終わってフリーだからなあ。こんど会ったら今後のレパートリーとか聞いてみないとですね(今回後飲みも早く退却だったので・・・)
今日の一曲: フランツ・リスト 巡礼の年:第2年(イタリア)より「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」
iTunes Storeでのリンク
いやーこんな難しい曲自分では一生弾かないですしそんなに頻繁に聴こうとも思えないのですが今回の演奏のあとだと紹介するのはこれしかない。というか今回紹介しないと多分ずっと紹介しない。
ピアノってのは(例えば同曲集のソネットのように)人間の気持ちを表現するのに巧みな楽器なだけでなく本当に色んな物になれるのが面白いと思います。自分の普段のレパートリーだと鳥だったり花火だったり宇宙だったり。
この通称ダンテ・ソナタでピアノが何になることを求められるか、といえばずばり「地獄」です。ダンテの「神曲」の前半「地獄篇」が題材になっているので。
大学の頃ピアノ仲間の中で超絶難しい曲といったらダンテ・ソナタが筆頭みたいなところがありましたが(それでも何人か弾いてました)、今でもやっぱり体力的にも技巧的にも音楽的にもものすごい巨大なモニュメントみたいにそびえ立っている気がします。
というかこの曲が一つの独立したソナタじゃなくて曲集の一部になってるのが色々納得いかない。題材とかの関係もいろいろあるけどこれはこれでこれだろう(意味不明)。要するに異次元だといいたいわけです。
なんと前述のTristanの録音、Move Recordsから出たときにiTunes Storeでも発売になったようで。なのでもちろん激推しでリンク。ダンテ・ソナタは長いのでアルバムオンリーですが是非是非。
さて先日はそんながたがたの中で友人のリサイタルに行って来ました。メルボルン大学で博士号を終えた彼が博士号のテーマに、そしてピアノにおける一種のライフワーク的なものとして(でいいんだよね)弾いていたリストの「巡礼の年:第2年(イタリア)」をまるっと全部聴けるコンサート。一つ一つで、またはいくつか組み合わせて弾いて十分面白い&成り立つ曲が結構あるのであんまり全曲演奏って聴かない気がします。私も第2年今弾いてますが全部は弾かないなあ。なので色々貴重な機会でした。
そして博士号のプロジェクトの一部として録音したこの第2年(+α)のCDも発売してました。もちろん買いましたよー。
Liszt's Italian Pilgrimage
ピアノ:Tristan Lee
フランツ・リスト 巡礼の年:第2年(イタリア)
婚礼
物思いに沈む人
サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ
ペトラルカのソネット第47、104、123番
ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲
リスト!イタリア!というよりも今回の演奏の印象はそれぞれの曲、曲集全体としての音楽だけでなくそのインスピレーションや題材になった作品にも思いを馳せられるような何重の層にもなっている芸術作品の集まりの素晴らしさ。もちろん音楽聴いてんですし芸術なのは当たり前ですが音楽もありながら詩もありながら彫刻もありながら絵も有りながら、みたいなテレビでしか見たことのないヨーロッパの美術館みたいな感覚でした。
特に演奏が好きだったのは婚礼、3つめのソネット、そしてダンテ・ソナタかなあ。婚礼に関しては単曲でもう何回も聴いてるしそれ以上に弾いてるはずなのでアットホーム感が心地良い。ダンテ・ソナタはあんな難しいあんな大曲を全体像からディテールまでしっかりコントロールしてどこからみても納得の行くパワフルで鬼気迫る(そして繊細なところは繊細な)演奏で聴けてよかったです。彼の演奏がこの曲に関しては自分の中でのスタンダードであり理想像。
そういえば今回聴衆側にいた別の友人がリストの巡礼の年について面白いことを言ってました。なんでも第2年、第3年は音楽の内容とか表現に対して実際の音が少ない、と。確かに私も楽譜を買ったとき違和感があったんですよね。「あれ、こんなのっぺりとした楽譜でいいの?」みたいな。第1年だったりリストの他の(もっと早期の)作品だと音いっぱいだからリストが晩年に向けて身につけた表現法というか作風というか魔法なのかもしれませんね。
自分にとっては(印象派方面から来てるから自然と、といえばいいのかな)第3年がメインディッシュな感じで取り組んでますがTristanは第3年は弾いたり演奏したりするのかなあ。また色々違って面白いのでどういうアプローチするか気になります。でも博士号は終わってフリーだからなあ。こんど会ったら今後のレパートリーとか聞いてみないとですね(今回後飲みも早く退却だったので・・・)
今日の一曲: フランツ・リスト 巡礼の年:第2年(イタリア)より「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」
iTunes Storeでのリンク
いやーこんな難しい曲自分では一生弾かないですしそんなに頻繁に聴こうとも思えないのですが今回の演奏のあとだと紹介するのはこれしかない。というか今回紹介しないと多分ずっと紹介しない。
ピアノってのは(例えば同曲集のソネットのように)人間の気持ちを表現するのに巧みな楽器なだけでなく本当に色んな物になれるのが面白いと思います。自分の普段のレパートリーだと鳥だったり花火だったり宇宙だったり。
この通称ダンテ・ソナタでピアノが何になることを求められるか、といえばずばり「地獄」です。ダンテの「神曲」の前半「地獄篇」が題材になっているので。
大学の頃ピアノ仲間の中で超絶難しい曲といったらダンテ・ソナタが筆頭みたいなところがありましたが(それでも何人か弾いてました)、今でもやっぱり体力的にも技巧的にも音楽的にもものすごい巨大なモニュメントみたいにそびえ立っている気がします。
というかこの曲が一つの独立したソナタじゃなくて曲集の一部になってるのが色々納得いかない。題材とかの関係もいろいろあるけどこれはこれでこれだろう(意味不明)。要するに異次元だといいたいわけです。
なんと前述のTristanの録音、Move Recordsから出たときにiTunes Storeでも発売になったようで。なのでもちろん激推しでリンク。ダンテ・ソナタは長いのでアルバムオンリーですが是非是非。
暑い日も多分今日で終わり、だんだんと気温が落ち着いてきて編み物日和になってきました。
新しい毛糸もネットで取り寄せてしばらくストックは安泰、というか消費がおいつくのが心配な感じになってきました。でもそこは直視しない。
その毛糸が届いたときに郵便屋さんが「お手紙の方もあるんでどうぞー」とポストに入れずに手渡してくれた中にちょっと珍しい手紙が。
というか紙の手紙(e-mailに対してsnail mailとこちらでは言いますが)自体が珍しいんでなんだろうと思ったらMedicare(国民健康保険的なやつ)からのconfidentialなお手紙。税金関連のお手紙にしては早くないかと思ったらどうも違うようで。
内容は双極性障害についての研究に参加しませんか、という内容のもの。なんでも双極性障害とその治療の効果に関して遺伝学的な要因を調べているらしいです。ここ数年で炭酸リチウムの処方が記録にあったからお手紙が来たらしく(まあここ数年どころかもう20年近く野飲んでるんですけどね、自分でもびっくり)。なるほどそういう使われ方もあるんだ。
オンラインの質問票+もし条件に合致したら唾液のサンプルを提出してもらう、みたいなことだったので参加することにしました。
臨床研究は色々な段階でお仕事に関わってくるのでその過程とかには親しみもあり(同意書も読む前からどんな感じのことがカバーされてるかだいたい分かってたり)、なので参加者側として違うアングルからアプローチできることに結構わくわくしました。そして仕事でこの分野はあんまり出会わないのでメンタルヘルス、特に双極性障害の分野に貢献できるならできる形で貢献したいと思ってましたし。しかも遺伝学ってさらにまた面白い。それにこういうところが焦点の研究なら大分症状や病状が落ち着いても貢献できますしね。
ということでとりあえずはオンラインで質問票3セットに答えてきました。トータルで1時間くらいかかったかな?もうちょっとかかったかも。でも必須なのは最初のだけだった様子。精神的・身体的な健康や病歴だけでなく双極性障害を患った体験(といえばいいのか)の詳細だったり薬のことだったり遺伝的なことにつながるであろう趣旨のちょっと違う質問だったり色々ありました。
もちろん質問に(記憶にあるかぎりなるべく)正確に答えようと真剣に取り組みましたがそれと同時に質問の言葉遣いだったり、一部の患者さんにとって答えるのがしんどいであろう質問に関する配慮だったり、シンプルにストレートに聞いて客観的な答えを得ることが難しい項目の攻め方みたいなことを分析しながら答えるのも面白かったです。前も全く別の分野で答えた質問票も色々な工夫と配慮があったのですが「質のいい答えを得るための質問の仕方」ってほんと大切。
で、質問は全部答えて(もちろんそのままオンラインで)提出したのであとは唾液サンプルが欲しいとなったらまた連絡がくるらしいです。どういう基準で選んでるのかな。単純に「双極性障害を患った」「それに対して治療を受けた」ということなら適格だと思うんだけど。
あと唾液サンプルどれくらい要るんだろう。双極性障害の治療でよく使われる炭酸リチウムの副作用として口の中が乾く、唾液の分泌が減るみたいなことはよくあるそうなので(私もそうらしいです、歯医者さんにはだから虫歯にはより気をつけなさいって言われました)あんまりたくさんは求められないと思うんだけど。
自分の遺伝子がどうだとかそういう結果はこっちには返ってこないわけですが先ほど言ったとおり貢献するのが嬉しいですし何か今後オーストラリアでここらへんトピックで発見があったら小躍りしたいです。
ただサイトのトップを見る限り目標の5000人中2000弱しかまだ参加者が集まってないみたいなのでまずは研究が進むよう参加者が増えることを願うばかりですね。
もちろん私もこれで貢献終わりじゃないのでできることがあれば一枚でも二枚でも噛んでいきたいです。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 世の終わりのための四重奏曲 第5楽章「イエスの永遠性への賛歌」
こないだの土曜日、バレエのビギナーの方のレッスンに行った時バーレッスンだけトウシューズを履いてみるという試みをやって全身が筋肉痛になりまして。それはもう水曜のレッスン以上ってわけじゃないんですが変なところが変に痛くてなかなかしんどかったです。(ただそれでも明日も再挑戦する予定)
その一部だったのかなんか知らないのですがまた肘の中の腱?を痛めたようでピアノも数日の間時間+内容両方控え目にしてました。
その控え目メニューの一部としてこのメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」の第5楽章・第8楽章のゆっくりな和音を改めて指で味わってみようと思って(ほぼ)初見で弾いてみたりしてました。もちろんメロディーを弾いてくれるチェロ・バイオリンの人はいませんし自分で歌えるほど器用でもないですがメシアンはメシアンなので和音だけでも十分内容が豊富ですからね。和音だけでご飯が食べられる。
第5楽章と第8楽章は音楽の性質的にものすごく似てますが私自身の好みだったら第8楽章に軍配を上げちゃうかな-。(元チェロ弾きですが・・・)最後の楽章だけあってささやかにドラマ多めだしメロディーも伴奏のリズムも和音もそれぞれちょっとずつこっちの方が好き。
でも今日は第5楽章の紹介なんです。
メシアンの使う色とりどりの和音は大体ピアノソロ曲でも音が7つとか8つとか9つとか重なって出来てることが多いのですがこの「イエスの永遠性への賛歌」のピアノパートはほぼ全部が3音くらいの和音で出来てます。それでもシンプルながら色んな色でできてるし十分すぎるほどメシアンの色彩だってわかる。
この楽章をピアノ弾きとして弾いてちょっと気になったのがテンポ。楽譜通りにいくと44bpmでただただビートを刻んでいくパートなんですが色々なかなか難しい。メシアンのスローな曲って結構みんなそれぞれの理由で数字に忠実じゃないテンポを選ぶのですがこの曲の場合チェリストの腕が落ちない程度のテンポで弾きたいよねー、みたいなことは考慮したほうがいいのかな。最終的にはチェリストに従うことになるんだろうし。
それでも自分にとってはメシアンのスローな曲は元の数字に近いところにうまく乗るテンポが必ず見つかるという経験があるので(最終的にそのテンポにするかは別として)、この楽章に関してもいいフィーリングのビートを自分なりに見つけたいなと思ってます。見つけないと夜眠れないとかそういうことは全然ないんですがやっぱり思い出してちょっとむずがゆいので。
自分なりにテンポをみつけたいといえばリンクした録音にいっしょに収録されてるトゥーランガリラ交響曲のスローな楽章もそういうのがいくつかありますね。自分が指揮者だったらどんなテンポを選びたいか。メシアンの音楽はかなり細かく指示があるのに奏者によって解釈がかなり多様に分かれるのが面白いので自分でも自分の解釈を持ちたくなりますし、聴く方としては色んな録音を聴き比べるのもまた楽しみがあります。
新しい毛糸もネットで取り寄せてしばらくストックは安泰、というか消費がおいつくのが心配な感じになってきました。でもそこは直視しない。
その毛糸が届いたときに郵便屋さんが「お手紙の方もあるんでどうぞー」とポストに入れずに手渡してくれた中にちょっと珍しい手紙が。
というか紙の手紙(e-mailに対してsnail mailとこちらでは言いますが)自体が珍しいんでなんだろうと思ったらMedicare(国民健康保険的なやつ)からのconfidentialなお手紙。税金関連のお手紙にしては早くないかと思ったらどうも違うようで。
内容は双極性障害についての研究に参加しませんか、という内容のもの。なんでも双極性障害とその治療の効果に関して遺伝学的な要因を調べているらしいです。ここ数年で炭酸リチウムの処方が記録にあったからお手紙が来たらしく(まあここ数年どころかもう20年近く野飲んでるんですけどね、自分でもびっくり)。なるほどそういう使われ方もあるんだ。
オンラインの質問票+もし条件に合致したら唾液のサンプルを提出してもらう、みたいなことだったので参加することにしました。
臨床研究は色々な段階でお仕事に関わってくるのでその過程とかには親しみもあり(同意書も読む前からどんな感じのことがカバーされてるかだいたい分かってたり)、なので参加者側として違うアングルからアプローチできることに結構わくわくしました。そして仕事でこの分野はあんまり出会わないのでメンタルヘルス、特に双極性障害の分野に貢献できるならできる形で貢献したいと思ってましたし。しかも遺伝学ってさらにまた面白い。それにこういうところが焦点の研究なら大分症状や病状が落ち着いても貢献できますしね。
ということでとりあえずはオンラインで質問票3セットに答えてきました。トータルで1時間くらいかかったかな?もうちょっとかかったかも。でも必須なのは最初のだけだった様子。精神的・身体的な健康や病歴だけでなく双極性障害を患った体験(といえばいいのか)の詳細だったり薬のことだったり遺伝的なことにつながるであろう趣旨のちょっと違う質問だったり色々ありました。
もちろん質問に(記憶にあるかぎりなるべく)正確に答えようと真剣に取り組みましたがそれと同時に質問の言葉遣いだったり、一部の患者さんにとって答えるのがしんどいであろう質問に関する配慮だったり、シンプルにストレートに聞いて客観的な答えを得ることが難しい項目の攻め方みたいなことを分析しながら答えるのも面白かったです。前も全く別の分野で答えた質問票も色々な工夫と配慮があったのですが「質のいい答えを得るための質問の仕方」ってほんと大切。
で、質問は全部答えて(もちろんそのままオンラインで)提出したのであとは唾液サンプルが欲しいとなったらまた連絡がくるらしいです。どういう基準で選んでるのかな。単純に「双極性障害を患った」「それに対して治療を受けた」ということなら適格だと思うんだけど。
あと唾液サンプルどれくらい要るんだろう。双極性障害の治療でよく使われる炭酸リチウムの副作用として口の中が乾く、唾液の分泌が減るみたいなことはよくあるそうなので(私もそうらしいです、歯医者さんにはだから虫歯にはより気をつけなさいって言われました)あんまりたくさんは求められないと思うんだけど。
自分の遺伝子がどうだとかそういう結果はこっちには返ってこないわけですが先ほど言ったとおり貢献するのが嬉しいですし何か今後オーストラリアでここらへんトピックで発見があったら小躍りしたいです。
ただサイトのトップを見る限り目標の5000人中2000弱しかまだ参加者が集まってないみたいなのでまずは研究が進むよう参加者が増えることを願うばかりですね。
もちろん私もこれで貢献終わりじゃないのでできることがあれば一枚でも二枚でも噛んでいきたいです。
今日の一曲: オリヴィエ・メシアン 世の終わりのための四重奏曲 第5楽章「イエスの永遠性への賛歌」
こないだの土曜日、バレエのビギナーの方のレッスンに行った時バーレッスンだけトウシューズを履いてみるという試みをやって全身が筋肉痛になりまして。それはもう水曜のレッスン以上ってわけじゃないんですが変なところが変に痛くてなかなかしんどかったです。(ただそれでも明日も再挑戦する予定)
その一部だったのかなんか知らないのですがまた肘の中の腱?を痛めたようでピアノも数日の間時間+内容両方控え目にしてました。
その控え目メニューの一部としてこのメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」の第5楽章・第8楽章のゆっくりな和音を改めて指で味わってみようと思って(ほぼ)初見で弾いてみたりしてました。もちろんメロディーを弾いてくれるチェロ・バイオリンの人はいませんし自分で歌えるほど器用でもないですがメシアンはメシアンなので和音だけでも十分内容が豊富ですからね。和音だけでご飯が食べられる。
第5楽章と第8楽章は音楽の性質的にものすごく似てますが私自身の好みだったら第8楽章に軍配を上げちゃうかな-。(元チェロ弾きですが・・・)最後の楽章だけあってささやかにドラマ多めだしメロディーも伴奏のリズムも和音もそれぞれちょっとずつこっちの方が好き。
でも今日は第5楽章の紹介なんです。
メシアンの使う色とりどりの和音は大体ピアノソロ曲でも音が7つとか8つとか9つとか重なって出来てることが多いのですがこの「イエスの永遠性への賛歌」のピアノパートはほぼ全部が3音くらいの和音で出来てます。それでもシンプルながら色んな色でできてるし十分すぎるほどメシアンの色彩だってわかる。
この楽章をピアノ弾きとして弾いてちょっと気になったのがテンポ。楽譜通りにいくと44bpmでただただビートを刻んでいくパートなんですが色々なかなか難しい。メシアンのスローな曲って結構みんなそれぞれの理由で数字に忠実じゃないテンポを選ぶのですがこの曲の場合チェリストの腕が落ちない程度のテンポで弾きたいよねー、みたいなことは考慮したほうがいいのかな。最終的にはチェリストに従うことになるんだろうし。
それでも自分にとってはメシアンのスローな曲は元の数字に近いところにうまく乗るテンポが必ず見つかるという経験があるので(最終的にそのテンポにするかは別として)、この楽章に関してもいいフィーリングのビートを自分なりに見つけたいなと思ってます。見つけないと夜眠れないとかそういうことは全然ないんですがやっぱり思い出してちょっとむずがゆいので。
自分なりにテンポをみつけたいといえばリンクした録音にいっしょに収録されてるトゥーランガリラ交響曲のスローな楽章もそういうのがいくつかありますね。自分が指揮者だったらどんなテンポを選びたいか。メシアンの音楽はかなり細かく指示があるのに奏者によって解釈がかなり多様に分かれるのが面白いので自分でも自分の解釈を持ちたくなりますし、聴く方としては色んな録音を聴き比べるのもまた楽しみがあります。
先生のコンサートに行っておきながら感想エントリーを書くのを忘れるとは不覚。
というか原因は完全にはっきりしてます。コンサートから帰宅してから見たサッカーの試合、パースとメルボルン・ヴィクトリーの試合でついにパースを倒したの+試合内容が嬉しくて嬉しくて。もう仕方がないですほんとそこは。
さて70代をのんびり?ひた走り?どちらかわかりませんが相変わらず大学で教えたり演奏したり海外に行ったりしている私のピアノの先生、Stephen McIntyre。いつも会えば(とはいえ最近はずっと演奏の場です)変わらずのキャラと指の動きと脳の冴え、元気で過ごしているようで何よりです。
今回はこんなプログラムのリサイタルでした。
プログラム:
ヨハネス・ブラームス 4つのバラード op.10
ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン ディアベリ変奏曲
ちょっと短めではありますが内容しっかり。特にディアベリの最後の(後で足されたという)変奏曲群は例えば似たような性質の四重奏曲やピアノソナタに負けないprofoundさがあり。
でも最初に作曲された方の、より軽い感じの変奏曲も先生の手にかかるとユーモアと魅力が光ります。やっぱり先生の演奏にはユーモアの要素は欠かせない、というか個人的に聴いてて楽しいです。(自分が比較的苦手としているところだから余計に)
大学にいたとき弾いたブラームスはことごとく晩期の作品だったので先生の手で初期のブラームスを聴くのは新鮮でした。先生もその先生(ミケランジェリ)の演奏でこの曲を初めて聴いたのが始まりと話してたのでこうやって師弟のつながりで影響が広がり受け継がれて行くのが面白いなー・・・と思ったのでもしかしたら冬あたりに一つくらいバラード弾いてみるかな。
ブラームスのバラード、演奏としては第1番のひんやり感だったりそこから各々違う雰囲気を纏うのがすごく好きだったのですが相変わらず先生せっかちで(笑)座ってから第1番に取りかかる時間がものすごく短かったです。なんというか事前の空気というものがあの曲はあるんじゃないかなとちょっと思ったり。
さてプログラムが短いこともあって感想も短くなっちゃいました。本当はもう一つ話したいトピックがあるのですがカテゴリ的に別のエントリーを立てるのが望ましいと思ったのでまた後日。忘れなければ明日。
今日の一曲: ヨハネス・ブラームス バラード op.10 第1番
ブラームスのバラードで一番有名なのはこれかな。高校時代VCEの音楽のレパートリーリストにも入っててその時点で弾いてた人も結構いたはず。ブラームスはあんまり題名を付けたり特定の題材で曲を書いたりすることが少ないのでこのバラード第1番みたいな例外は音楽そのもの以外のキャッチー要素がある気がします。
題材はスコットランドの民族詩らしいです。スコットランドで最後に首が切られて落ちるというとマクベスと割と共通点が。(ちなみにうちの高校は英語の授業でマクベスやりました)
この曲もそうですが北欧風味の2つのラプソディーも音の響きだけでブラームスが実際住んでたドイツよりぐっと緯度が上がる感かなりツボです。あとブラームスの音楽をあまりエキゾチックと呼ばない中この3曲は異国情緒みたいな雰囲気がすごい良い。
基本(ピアノに限らずですが)寒々しさを演出するのには音が開いた配置の和音を使うのが一般的なテクニック・・・なため私みたいに手が小さいと「ずっとオクターブ和音続き・・・でもある程度メロティーのラインはつなげたいんだけど・・・」みたいなところでちょっとつまづいたりします(笑)高校のころは正にそうだったのですが今は色んな曲を弾いて色んな回り道を編み出して(?)きたので多分なんとかなるやと思えます。まだこの第1番を弾くと決めたわけじゃないですがやっぱり有力候補かなー。
本文の方で書いた先生の話から今回はミケランジェリが弾いてる録音にしました。
彼は弾いたレパートリーが点々としている印象で面白いです。(先生はまんべんない)好きな曲ばっかり弾いてるのかな。でも自分も点々と弾く傾向があるなか少なからず共通レパートリーがあって見つけるとちょっと嬉しいです。
ただそういうこともあってミケランジェリの録音はアルバム・CDとして入手するとちょっと他ではみない曲の組み合わせで収録されてることがたびたびあります。ということでベートーヴェンとシューベルトのピアノソナタ1つずつもいっしょにどうぞ。
というか原因は完全にはっきりしてます。コンサートから帰宅してから見たサッカーの試合、パースとメルボルン・ヴィクトリーの試合でついにパースを倒したの+試合内容が嬉しくて嬉しくて。もう仕方がないですほんとそこは。
さて70代をのんびり?ひた走り?どちらかわかりませんが相変わらず大学で教えたり演奏したり海外に行ったりしている私のピアノの先生、Stephen McIntyre。いつも会えば(とはいえ最近はずっと演奏の場です)変わらずのキャラと指の動きと脳の冴え、元気で過ごしているようで何よりです。
今回はこんなプログラムのリサイタルでした。
プログラム:
ヨハネス・ブラームス 4つのバラード op.10
ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン ディアベリ変奏曲
ちょっと短めではありますが内容しっかり。特にディアベリの最後の(後で足されたという)変奏曲群は例えば似たような性質の四重奏曲やピアノソナタに負けないprofoundさがあり。
でも最初に作曲された方の、より軽い感じの変奏曲も先生の手にかかるとユーモアと魅力が光ります。やっぱり先生の演奏にはユーモアの要素は欠かせない、というか個人的に聴いてて楽しいです。(自分が比較的苦手としているところだから余計に)
大学にいたとき弾いたブラームスはことごとく晩期の作品だったので先生の手で初期のブラームスを聴くのは新鮮でした。先生もその先生(ミケランジェリ)の演奏でこの曲を初めて聴いたのが始まりと話してたのでこうやって師弟のつながりで影響が広がり受け継がれて行くのが面白いなー・・・と思ったのでもしかしたら冬あたりに一つくらいバラード弾いてみるかな。
ブラームスのバラード、演奏としては第1番のひんやり感だったりそこから各々違う雰囲気を纏うのがすごく好きだったのですが相変わらず先生せっかちで(笑)座ってから第1番に取りかかる時間がものすごく短かったです。なんというか事前の空気というものがあの曲はあるんじゃないかなとちょっと思ったり。
さてプログラムが短いこともあって感想も短くなっちゃいました。本当はもう一つ話したいトピックがあるのですがカテゴリ的に別のエントリーを立てるのが望ましいと思ったのでまた後日。忘れなければ明日。
今日の一曲: ヨハネス・ブラームス バラード op.10 第1番
ブラームスのバラードで一番有名なのはこれかな。高校時代VCEの音楽のレパートリーリストにも入っててその時点で弾いてた人も結構いたはず。ブラームスはあんまり題名を付けたり特定の題材で曲を書いたりすることが少ないのでこのバラード第1番みたいな例外は音楽そのもの以外のキャッチー要素がある気がします。
題材はスコットランドの民族詩らしいです。スコットランドで最後に首が切られて落ちるというとマクベスと割と共通点が。(ちなみにうちの高校は英語の授業でマクベスやりました)
この曲もそうですが北欧風味の2つのラプソディーも音の響きだけでブラームスが実際住んでたドイツよりぐっと緯度が上がる感かなりツボです。あとブラームスの音楽をあまりエキゾチックと呼ばない中この3曲は異国情緒みたいな雰囲気がすごい良い。
基本(ピアノに限らずですが)寒々しさを演出するのには音が開いた配置の和音を使うのが一般的なテクニック・・・なため私みたいに手が小さいと「ずっとオクターブ和音続き・・・でもある程度メロティーのラインはつなげたいんだけど・・・」みたいなところでちょっとつまづいたりします(笑)高校のころは正にそうだったのですが今は色んな曲を弾いて色んな回り道を編み出して(?)きたので多分なんとかなるやと思えます。まだこの第1番を弾くと決めたわけじゃないですがやっぱり有力候補かなー。
本文の方で書いた先生の話から今回はミケランジェリが弾いてる録音にしました。
彼は弾いたレパートリーが点々としている印象で面白いです。(先生はまんべんない)好きな曲ばっかり弾いてるのかな。でも自分も点々と弾く傾向があるなか少なからず共通レパートリーがあって見つけるとちょっと嬉しいです。
ただそういうこともあってミケランジェリの録音はアルバム・CDとして入手するとちょっと他ではみない曲の組み合わせで収録されてることがたびたびあります。ということでベートーヴェンとシューベルトのピアノソナタ1つずつもいっしょにどうぞ。
コンサート行っておきながら感想書くのすっかり忘れてました。
あっぶなー。今週末もまたコンサートなのに(汗)
メル響がサー・アンドリュー・デイヴィスとこの数年間続けてきたマーラーサイクルも終盤。まだ予定が未定な8番「千人の交響曲」をのぞいてこれがラスト。(サー・デイヴィスは今年いっぱいで首席指揮者としてのお仕事終わりなのでいつかゲストとして来てやってくれるかなあ・・・)
今回はこれまでとはちょっと変わったフォーマットのコンサートでした。
Mahler 10: Letters and Readings
指揮者:Sir Andrew Davis
「Inside the Mind of Mahler」(俳優・脚本:Tama Matheson)
(休憩)
グスタフ・マーラー 交響曲第10番
今回のコンサートは違和感から始まりました。なんとステージにいるオケの団員がみんな私服。
そこにサー・デイヴィスが指揮台に立って「すまないけどまだリハーサルしなくちゃいけないところがあって」と話し始めたところでなるほどもう『何か』が始まってるんだなと。
リハーサルと称して交響曲の一部を弾き始めると「なんだこれは!これはマーラーの10番じゃないぞ!」と現れた人物。舞台に上がったその人は何かの間違いで蘇ったマーラー(Tama Matheson演じる)でした。
そこからこの作品の背景や作曲家の思いなどを作曲家自身と指揮者がマーラー自身の記録された言葉などを中心に話していく(そしてビオラのリーダー演じるフロイトも交えて)という舞台作品仕立てになっていました。
後からこのコンサートのレビューにあったとおり普通にプログラムにも書いてあることだし要らないっちゃあ要らない演出ではあるとは確かに思いますけど普通に面白かったですし楽しかったです。この10番はマーラーのパーソナルな部分がものすごく強く現れているのでそれを強調したフォーマットは面白いですし、あとたまにマーラーの交響曲って一人の人間が書いたことを忘れがちなすごさもありますし。それから何よりマーラーが生きてた時代と今の時代で諸々価値観が変わってることをちゃんと認識する必要があるという意味で大切かもと思います。特にマーラーの作品の重要な要素「死」は彼の時代と比べて医療などが進んだ今とではとらえ方がかなり違ったり。あと蘇ったマーラーが私たち聴衆のことを「underdressed」と言ったのですがクラシック音楽の演奏環境も変わってる。フロイトの治療だって当時は最先端だったのが今では時代遅れ扱い。クラシック音楽というジャンルに限っていえば100年ちょいなんて最近のことなのですがcontextと合わせることで、それを生身の人間を通して触れることで肌で感じる、というのは意義があるんじゃないかなあ。
さて本題マーラー10番。マーラーが最後に書いた作品であり、彼自身の思い(特に妻アルマに向けた思い)を音のみならず言葉としてスコアに溢れさせた未完の作品・・・を後からDaryl Cookeが完成させた作品。未完成、完成といってもラフスケッチは全部できてて後から肉付け&楽器に音を振り分けする部分があったということらしいです。ただ出版するにはアルマの壁(私が勝手にそう呼んでいる)が高く厚くそびえたらしいですが最終的にこのバージョンは認められれ今でも演奏されているとか。
スケールも長さもマーラーの交響曲として最大ではないですが色んな人の思いが相当ぎっしり詰まっている曲。
なので一回聞いただけじゃ全部は理解できないですし要スコア(汗)やっぱりマーラー節!ってとこもあれば「おおう?」みたいな違和感(多分Cookeさんのせいなくて元々のマーラーの仕業)があるところもあり。なにより形式だけで「うおーそうかー」と頭を色々巡らせる力があるって半端ない。
とにかく曲をなんとか頭のなかで処理しようと忙しくて演奏がどうだったかまでは頭が回らない部分もあったのですがメル響なんで聞いてて楽しい、エキサイティングな演奏だったながらびしっと統率のきびきびしたオケで一回聞いてみたいところです。その方が映えるところも数々あるはず。
(まだ8番聞いてませんが&9番は別のオケで聞きましたが)1番からずっと聞いてきて最後にこれが待ってるとか地味に大ボス感がすごくて面白かったです。しばらく間おいてからでいいんでまた1番から味わいたい気持ちもあります。懲りないなー&飽きないなー自分。もちろん8番やるんだったらコンプリートしに行きます。あれはまたあれで別のモンスターですし。楽しみなので是非やっていただきたい。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 第5楽章
最後の最後のマーラー。愛だったり絶望だったり死だったり最後の作品なのに、そして未完成のまま亡くなっているのに最後の最後まで(=死後まで)しっかり生命力が詰まっているすごい作品です。
マーラーでいうと一番有名な曲が5番のアダージェット(アルマへのラブレターみたいなもん)なのかな、巷では。でもやっぱりある程度マーラーの作品を知ると一番強く感じるのが彼の作品を支配する「死」の影だと思います。交響曲も歌曲も至る所に死がいる。
ただ10番まで来てさらにまた斬新な死との出会い、死の表現が出てくるのがまたすごい。
マーラーはそのころニューヨークに渡っていてホテルからたまたま葬送の太鼓を聞いたのがこの楽章の冒頭から繰り返されるバスドラム(箱入り)のモチーフになってるらしいです。
外国に行って普段と違う文化に出会う新鮮さが新しい表現をもたらしたわけですね。
でも実際「異文化」+「生死にまつわる何か」のコンボってものすごくパワフルですよね。私も個人的に最近そこで思うことあったのですが、特に予期しない形でその2つの要素の組み合わせにエンカウントするとすごい衝撃を受けるんだろうな。
ただ現代人としてはマーラーの曲を聴くだけでもその異文化+死に関する価値観に真っ向にぶつかるのを体験するんですよね。曲をよく知ってても、例えばマーラーが死と親しみをもって遊び始めるのにぞっとしたり違和感を感じたりとか、そういうのは薄れない部分もあって。「死」が非日常になっていってる今の時代には(そして未来はもっと)マーラーの異質をもっと感じられる、楽しめるようになってるのかも。
さて余談なのですが先ほども書きました葬送の太鼓、今回のコンサートでは布にくるまれた箱の中に(おそらくスタンダードなものより小さい?)バスドラムが入っているというセットアップだったのですが他の演奏だとどうなってるかちょっと気になります。10番は他の交響曲とくらべて打楽器控えめな分こういう特殊な楽器の存在感が強いですね。(6番のハンマーほどインパクトはないにしても)
マーラーが完成させた最初の楽章だけ収録してる録音もありますがもちろん今回は「Cookeによる完全版」で。なぜかストリーミング版が多めなのはなんでだろう。
あっぶなー。今週末もまたコンサートなのに(汗)
メル響がサー・アンドリュー・デイヴィスとこの数年間続けてきたマーラーサイクルも終盤。まだ予定が未定な8番「千人の交響曲」をのぞいてこれがラスト。(サー・デイヴィスは今年いっぱいで首席指揮者としてのお仕事終わりなのでいつかゲストとして来てやってくれるかなあ・・・)
今回はこれまでとはちょっと変わったフォーマットのコンサートでした。
Mahler 10: Letters and Readings
指揮者:Sir Andrew Davis
「Inside the Mind of Mahler」(俳優・脚本:Tama Matheson)
(休憩)
グスタフ・マーラー 交響曲第10番
今回のコンサートは違和感から始まりました。なんとステージにいるオケの団員がみんな私服。
そこにサー・デイヴィスが指揮台に立って「すまないけどまだリハーサルしなくちゃいけないところがあって」と話し始めたところでなるほどもう『何か』が始まってるんだなと。
リハーサルと称して交響曲の一部を弾き始めると「なんだこれは!これはマーラーの10番じゃないぞ!」と現れた人物。舞台に上がったその人は何かの間違いで蘇ったマーラー(Tama Matheson演じる)でした。
そこからこの作品の背景や作曲家の思いなどを作曲家自身と指揮者がマーラー自身の記録された言葉などを中心に話していく(そしてビオラのリーダー演じるフロイトも交えて)という舞台作品仕立てになっていました。
後からこのコンサートのレビューにあったとおり普通にプログラムにも書いてあることだし要らないっちゃあ要らない演出ではあるとは確かに思いますけど普通に面白かったですし楽しかったです。この10番はマーラーのパーソナルな部分がものすごく強く現れているのでそれを強調したフォーマットは面白いですし、あとたまにマーラーの交響曲って一人の人間が書いたことを忘れがちなすごさもありますし。それから何よりマーラーが生きてた時代と今の時代で諸々価値観が変わってることをちゃんと認識する必要があるという意味で大切かもと思います。特にマーラーの作品の重要な要素「死」は彼の時代と比べて医療などが進んだ今とではとらえ方がかなり違ったり。あと蘇ったマーラーが私たち聴衆のことを「underdressed」と言ったのですがクラシック音楽の演奏環境も変わってる。フロイトの治療だって当時は最先端だったのが今では時代遅れ扱い。クラシック音楽というジャンルに限っていえば100年ちょいなんて最近のことなのですがcontextと合わせることで、それを生身の人間を通して触れることで肌で感じる、というのは意義があるんじゃないかなあ。
さて本題マーラー10番。マーラーが最後に書いた作品であり、彼自身の思い(特に妻アルマに向けた思い)を音のみならず言葉としてスコアに溢れさせた未完の作品・・・を後からDaryl Cookeが完成させた作品。未完成、完成といってもラフスケッチは全部できてて後から肉付け&楽器に音を振り分けする部分があったということらしいです。ただ出版するにはアルマの壁(私が勝手にそう呼んでいる)が高く厚くそびえたらしいですが最終的にこのバージョンは認められれ今でも演奏されているとか。
スケールも長さもマーラーの交響曲として最大ではないですが色んな人の思いが相当ぎっしり詰まっている曲。
なので一回聞いただけじゃ全部は理解できないですし要スコア(汗)やっぱりマーラー節!ってとこもあれば「おおう?」みたいな違和感(多分Cookeさんのせいなくて元々のマーラーの仕業)があるところもあり。なにより形式だけで「うおーそうかー」と頭を色々巡らせる力があるって半端ない。
とにかく曲をなんとか頭のなかで処理しようと忙しくて演奏がどうだったかまでは頭が回らない部分もあったのですがメル響なんで聞いてて楽しい、エキサイティングな演奏だったながらびしっと統率のきびきびしたオケで一回聞いてみたいところです。その方が映えるところも数々あるはず。
(まだ8番聞いてませんが&9番は別のオケで聞きましたが)1番からずっと聞いてきて最後にこれが待ってるとか地味に大ボス感がすごくて面白かったです。しばらく間おいてからでいいんでまた1番から味わいたい気持ちもあります。懲りないなー&飽きないなー自分。もちろん8番やるんだったらコンプリートしに行きます。あれはまたあれで別のモンスターですし。楽しみなので是非やっていただきたい。
今日の一曲: グスタフ・マーラー 交響曲第10番 第5楽章
最後の最後のマーラー。愛だったり絶望だったり死だったり最後の作品なのに、そして未完成のまま亡くなっているのに最後の最後まで(=死後まで)しっかり生命力が詰まっているすごい作品です。
マーラーでいうと一番有名な曲が5番のアダージェット(アルマへのラブレターみたいなもん)なのかな、巷では。でもやっぱりある程度マーラーの作品を知ると一番強く感じるのが彼の作品を支配する「死」の影だと思います。交響曲も歌曲も至る所に死がいる。
ただ10番まで来てさらにまた斬新な死との出会い、死の表現が出てくるのがまたすごい。
マーラーはそのころニューヨークに渡っていてホテルからたまたま葬送の太鼓を聞いたのがこの楽章の冒頭から繰り返されるバスドラム(箱入り)のモチーフになってるらしいです。
外国に行って普段と違う文化に出会う新鮮さが新しい表現をもたらしたわけですね。
でも実際「異文化」+「生死にまつわる何か」のコンボってものすごくパワフルですよね。私も個人的に最近そこで思うことあったのですが、特に予期しない形でその2つの要素の組み合わせにエンカウントするとすごい衝撃を受けるんだろうな。
ただ現代人としてはマーラーの曲を聴くだけでもその異文化+死に関する価値観に真っ向にぶつかるのを体験するんですよね。曲をよく知ってても、例えばマーラーが死と親しみをもって遊び始めるのにぞっとしたり違和感を感じたりとか、そういうのは薄れない部分もあって。「死」が非日常になっていってる今の時代には(そして未来はもっと)マーラーの異質をもっと感じられる、楽しめるようになってるのかも。
さて余談なのですが先ほども書きました葬送の太鼓、今回のコンサートでは布にくるまれた箱の中に(おそらくスタンダードなものより小さい?)バスドラムが入っているというセットアップだったのですが他の演奏だとどうなってるかちょっと気になります。10番は他の交響曲とくらべて打楽器控えめな分こういう特殊な楽器の存在感が強いですね。(6番のハンマーほどインパクトはないにしても)
マーラーが完成させた最初の楽章だけ収録してる録音もありますがもちろん今回は「Cookeによる完全版」で。なぜかストリーミング版が多めなのはなんでだろう。